さくらももこ氏が亡くなったそうであるが、「ちびまる子ちゃん」はアニメーションで何回か見たことがある。以前、ちびまる子ちゃんの実写版ドラマをやってて、家族で見てたところ、わたくしを含めた子どもが面白そうにしていたところ、母が「あまり面白くない」と言ったのが印象に残っている。わたくしは、「そういえば、本当にこれを自分は面白いと思ったのだろうか」と、そのとき思った。確かに、ちびまる子ちゃんの世界よりはわたしは「面白くない世界」にすんでいた気がする。どうも、生活世界にメディアが入り込んでいる度合いが、ちびまる子の世界の方が進んでいて、まる子やその姉は、マンガやアイドルの世界で遊んでいた。
さくらももこの世代は、わたくしより少し上だが、――わたくしの生活実感は、「サザエさん」の方に近い。と、思ってもみたが、そうでもない。むしろ「サザエさん」は非常に都会の世界でおしゃれな人間関係を形作っていて、これとも違うようだ。しかし、かといって、「アパッチ野球軍」とかの世界とも違うし、「おしん」とも違った(一部はちょっと似てた)し、無論、「はやり唄」とか「田舎教師」の世界とも違う。
私たちは、自分の生活の原風景など、実際は殆ど記憶していない。「サザエさん」とか「ちびまる子ちゃん」が必要なのは、そのせいである。実際は異なっているのであるが、記憶を少し思い出すための媒体なのである。同世代の西原理恵子のマンガは、これらに比べると、ほんとうのことをデフォルメしてしまっているので、我々は作品世界に縛られてしまい、自分の記憶など思い出さない。
「宇治拾遺物語」の「伴大納言の話」(第四話)は、応天門事件で流罪にあった伴大納言の若いときの話である。西寺と東寺を股にかけて仁王立ちする夢を見た彼が妻にそれを言うと、「あなたの股が裂かれるのね」と言われたのでびっくりしたが、出勤してみると、上司の郡司がいつもと違って彼を歓待してくれて、
なんぢ、やむごとなき高相の夢見てけり。それに、よしなき人に語りてけり。かならず大位には至るとも、こと出で来て、罪をかぶらんぞ
と言うのであった。で、本当にそうなってしまったよ、と語り手は話を終えている。今も昔も、人相でなにかを判断したがる人は多いし、わたくしも屡々やっているかもしれない。案外、「あの顔はあかん」とか言い合うことで社会が成り立っている面は看過しがたい。しかし、本人にとっての自分の顔というのはよく分からないので、――「その夢はいいね」と言われたことの効果の方が大きい。最後は罪人になろうとも、あまり気にはならないのではあるまいか。
確か、酒井浩介氏の以前の論文で、小林秀雄的批評の起源としての座談会についての論文があった。座談会がトラブル処理の権力闘争のドラマみたいなものになっているという論旨だったと思う。こういう説話でも、様々な声の権力闘争によってなり立っているところはあり、「伴大納言の話」の場合、伴氏は結局人相が悪かったんじゃねえか、という判断をしている話者が勝っている気がするわけである。『日本三代実録』でもなにやら容姿について批判されている彼のことであって、まったくかわいそうなことである。
ちびまる子ちゃんはその点、人相が良い……のだろう……