★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

一仕事終えたのでねねさまのあれを訪ねる

2017-03-20 22:15:19 | 神社仏閣

絢爛豪華なあれを期待する


突然目の前に現れると怖いあれ


木の向こうのあれ


渡り廊下みたいな


みごとなかたちなので


砂もみごとな


ひなたぼっこ


盛り上がったあれ






北政所をねねさまと呼んでも良い気がしてきました。

この人は、文化的には何を守ろうとしていたのだろう……。この時代は面白いなあ……。

木曽対牛久

2017-03-18 18:27:32 | ニュース

御嶽海(木曽)VS……


稀勢の里(牛久)

いつの間にか牛久めちゃくちゃ強し!


それはそうと、「キバの紋章」は面白いな……「あとがき」が説明しすぎのような気がするがそれもこの作者の面白さだなあ……

ヌードと愛国と悪Tea部

2017-03-17 23:42:30 | 思想


ああ、そういえばそうだな、と頷きながら読んだ。そういえば、昨年度の秋に仕事で高等学校の国語の授業の助言者(す、すみません)をやったのだが、今日その報告書というか集録みたいな冊子が大学に届いていた。私の担当した授業は最初から、「最近のあれはあれしていきましょう」という方針だったので、あれだったが、他の授業はおおむね悪Tea武裸唖忍愚みたいな授業を目指していたことが判明した。何が頭を悪Tea部にするかというのは非常に難しい問題であり、まあやれるもんならさっさとやっていただきたいと思う。例えば、上の本を読んでわたくしが思うのは、「なるほどなるほど」みたいな感情であり、決して頭が悪Tea部になっているのではない。それでも、完全に思考が止まっている指導要領みたいなものよりはましだ。

今日一日

2017-03-16 21:56:39 | 漫画など


眠れずに、真崎守の『共犯幻想』を読み始めてしまったところ、全く眠気がなくなり最後まで読んでしまった。ちょっとあれだな……と思いつつ、なぜこのようなものが文化的に葬り去られたのかとブツブツ……と呟きながら眠りにつく。


起きてから、このヤクザな本を一気読みする。ブツブツ……


このヤクザな本も一気読み。よく分からんが、褒めても叱ってもなんでもいいけど、学校の教育者がちゃんと勉強してなきゃどうにもならん……。(この本には触れられていなかったが、学校の教師が叱れなくなった理由の一つに、発達障害への意識があると思うんだが、その点はどうなんだろう。確かに、親や教員がすでに葛藤を経験しないで大人になったので自信がないというのもあるだろうし、教員への世間からの脅迫も無論あるんだが…。)


最近、渡邊慧を読んでいる。上は『時間』の白日書院版。以前、「思想の科学」の評論家で鶴見俊輔みたいな奴だと思っていたことを懺悔します。

籠池氏が、テレビで「これには安倍晋三首相からの寄付が入っている」と叫んでいる。

昭和4年

2017-03-15 23:20:26 | 思想


山内得立の『現象学敍説』をめくっていたら、以前の持ち主が「一九二九年九月六日午後五時 小樽山上町・西陽照る・二畳間にて・了」と書いてあった。全体にわたって赤と青で傍線が引いてあり、キーワードが頭注のように書きだしてある。持ち主は誰だったんだろう?

それにしても当時の岩波書店の哲学書は全然壊れないな……丈夫だ。

野球と女と酒と

2017-03-14 23:13:21 | 漫画など


この前、「メジャー」というNHKでやってたアニメーションの劇場版がテレビでやってたから録画しておいた。今日、ご飯を食べながら観てみた。

この「メジャー」という漫画、全く読んだことも観たこともなかったのであるが、なぜかというと、妙に写実的に野球が描かれているような気がしたからだ。野球は荒唐無稽な人情劇がよいので…。我々には、「がんばれベアーズ」のような絶妙なリアルな作品をつくる文化はないからだ。「メジャー」という題名も、「アストロ球団」に比べればもはやほとんど何を言っているのかわからない。

で、観てみたのだが、どうやら、昔ながらの野球漫画を踏襲したものであるようだ。まず、主人公が若い頃から不幸の固まり(孤児)、友達がいいやつ、野球は一人でやるもんじゃないといいながら主人公だけが天才、火事場の馬鹿力→故障、右手がだめなら左手、投手がだめならバッター(消去法方式)。弱小チームがなんだか全国大会に。魔球みたいなものあり。

昔「タッチ」という作品があって、これがまた、主人公を不幸にするだけではオサマらず、三角関係と殺人まで持ち込んで、野球を描かなくても野球漫画というポストモダンをやらかした後は、たいした野球漫画がなかった気がする。(よく知らんけど)

この「メジャー」では、女関係がどうなってるのか知らないが、主人公の性格からして、女より野球を取るタイプに違いない。しかし――最後、もう腕の感覚がないのに、最後のバッターに向かっていく主人公だが、バックネットから彼に惚れている女子が「ゴロークーン」と叫んだ瞬間に彼は全力投球=腕がぼきり。彼の右腕は再起不能に。どうみてもこの女子のせいである。

「タッチ」でもたっちゃんとかなにちゃんとかの男子二人の人生をめちゃくちゃにした魔性の女(確かみなみちゃん)がいた。「ドカベン」では岩鬼という人物が時々主人公より活躍するのは、なつこはんという女子がいたからで、物語の必然として、弁証法的に主人公のドカベンは更に天才ということになり、更にその妹はどうみてもかわいくないのに里中という美少年と結婚(したんだよな?)、童貞のドカベンは三冠王という、まさに否定的媒介としての女の存在は…

以前「あぶさん」という酒の方が野球より好きという漫画を読んだことがあるが、案外幸福な結婚をしているのであった。「メジャー」はどうやらそんな感じで、wikipediaには二児の父となっていると書いてあった。で、「メジャー」において「酒」に相当するものは何かなのであるが、どうもわからない。

「アストロ球団」なら「革命」とかなのであろうが、「メジャー」の場合、もしかしたら、マリファナでは…とは思ったが、そんなことはないであろう。とすると、彼は家族と野球だけで自分を維持しているのであろうか。彼の過労死を当該作品のファンは全力で防がなくてはならない。

スイーツと3番

2017-03-13 23:57:42 | 音楽


スイーツ系音楽というものがあるのかしらないが、あることにしておく。
私が選ぶ、スイーツ系音楽(クラシック音楽篇)

1、マーラー交響曲第3番……愛を私に語ってくれくれ系
2、ラフマニノフ交響曲第2番……愛を反復してして系
3、リスト「愛の夢」……私を夢に見てくんなはれ~系
4、ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」……ついでに世界は滅びろ系
5、シェーンベルク「浄夜」……他人の子ども生んでいいかな系
6、ハンソン交響曲第2番……「エイリアン」が死んでロマンチック系
7、ブルックナー交響曲第4番……メロディーがロマンチックじゃない系
8、チャイコフスキー「こんぺいとうの踊り」……金平糖系
9、湯山昭「お菓子の世界」……まさにスイーツ系

このなかでも、マーラーの3番の第6楽章の糖度はすごく、私がイタリアの食堂で食べた、底に行くほど甘くなる甘すぎるパフェみたいな曲である。自分の葬式で流して欲しいと希望する人がいるらしいが、たぶん、もう一回生き返る予定なのであろう。……いや、それは、むしろラフマニノフの曲にいえることであって、マーラーの場合は、死にすぎて甘くなる、甘すぎて死ぬ、あるいは昇天しすぎて甘い、甘すぎて昇天……

書記法問題

2017-03-12 23:52:44 | 文学


大学の頃、村上春樹みたいな文体を拒否するにはどうしたらいいのか考えたことがある。もっぱら私は、それを小説創作上の問題として考えていたのだが、平野啓一郎が出てきて、あれっ、と思った。なんというか、これは文体ではなくて他の何ものかであって、その頃聞きかじりのエクリチュール(書記法)の問題が世の中にはあるのだということを思った……というのは、馬鹿な大学院生としての感想であって、本当は、彼のような書き方が出てきたのは「文学的」な問題として非常によく分かる気がしたのである。

最近、首相だけでなく、他の党首などもなんだか妙な文体でしゃべっているように思うが、女子高生がしゃべる言葉が変化するように、彼らの言葉が変化するのは当たり前だ。とはいえ、戦時中の新聞の文体と、安倍首相のしゃべりはあまりにも異なる。……うつらうつらこんなことを考えて、吉本隆明や時枝誠記をめくっていたら日が暮れた。

死者たちの田舎へ

2017-03-11 23:39:20 | 思想


田中純氏の本はあまり読んでいないが、『死者たちの都市へ』は印象に残っていたのでめくってみた。それにしても今日のNHKの「3・11宗教儀式」は異様だったからだ。私は田舎者なので、ヒトラーは生者のではなく死者の都市をつくろうとしていたと言われると、それ以前に「都市よお前はもう死んでいる」とでも言いたくなってしまう。確かに、都市は、草木の代わりに墓石みたいな建物ばっかりが並べて置いてあるようなものであって、異様だ。大学一年の時に、名古屋のビル群が意識の上では生きていて、しかし本当は死んでた、みたいな小説を書こうとして挫折したことがあるのだ。――どうも、東日本大震災の復興が遅々として進まない理由も、死者が草木や空や海か――、そんなどこかに行ってしまっている感じがするのと関係があるような気がする。都市の場合は、ビルでも建ててお弔いをしないと、という感じになるのかも……。

というのは、冗談であり、中央が東北を差別しているのが一番の理由だろうが、よく分からない。現在の日本という国は、例えば大地震があった場合、復興する金銭的体力は勿論、思想的気力があまりないのが現実なのではないだろうか。この前の敗戦の時は、様々な人たちにとっていろいろやり残したことがあったからね……。原爆も外からだったし。しかし、今回の原発事故は、「日本の戦後の復興」というアイデンティティを粉砕したのだと思う。安倍なんとかは、戦後レジームの脱却とか言ってるが、実際は原発事故以前への復帰が目標なのである。

しかし、何でもかんでも祈りゃいいというものではない。わたくしは黙祷をみているとなんだか非常に恥ずかしくなってくるのである。

田中氏もベンヤミンやカフカを使って述べていたが、暴力に対する「恥辱」の感覚、これは私も考えてみたいことである。

左手で、暴君の王笏を奪い取らなければならぬ

2017-03-10 23:25:51 | 文学


荒正人は、1946年において、「原子核のエネルギイ(火)」でこう言っていた。左手のなすべきことは、少数による政治ではないところの人民の手による政治の実現である。では右手は何していたかと言えば、「星のエネルギイ」、つまり原子核エネルギーを獲得していた。宇宙レベルの獲得をしたのだから、もはや王様の王笏なんか簡単に奪えそう、というわけだ。

全然そうはならなかったのはともかく、そもそも「人民の手による政治」というのが、一体どういうものなのか分からない。荒の見通しは相当甘かったのだ。気になるのは、彼の評論における譬え話の質の悪さみたいなことだ。上の評論でも、火神ロキの話があまりにも譬喩の域を超えている。宮崎アニメならその超え具合がファンタジーとなるが、これは評論なのである。

今日は、研究室から家に帰ると――、どうやら、籠池なんとかさんが記者会見して自分を2・26の将校に喩えたりして「いまにみておれ」とものすごい感じだったらしいが、途中で安倍首相がスーダンから撤退するぞ宣言して「いまのおれをみて」となり、韓国では大統領が罷免されて「いまはのきわ」みたいな感じになっていたのであった。もう誰が主語なのか分からないので文もおかしくなった。

結局、テレビで大々的に演説できたのは、籠池安倍なわけで、「こいつら強いな」と思った人民も多かったであろう。籠池なんとかさんは確かにちょっと飛び抜けていっちゃっている人かも知れないが、彼があんなに自信満々に饒舌なのは、理由がある。私の見たところ、彼のしゃべり口調や思想の一部は、学校現場の偉そうな先生方にかなり共通している側面なのである。なんだか話が長い。その割に内容がなく、たとえ話(よくよく考えると譬えとして間違ってる事も多い)が多く、声が大きく聞き取りやすいといえばそうもいえるが、迫ってくるような独特な抑揚がある。語りかけるようで、結局のところ命令である。これは、普通に考えればたちの悪い人物の特徴であるが、学校ではそうとも言い切れない。学校が狂っていると言っているのではない(言っているが)。学校は、子どもたちをさしあたり勉強させ礼儀作法を身につけさせ、だめな日本社会を渡って行くコミュニケーション能力(笑)をつけるように行動させる場所である(これがよいと言っているのではない。所詮学校はそういう社会のだめな部分にも馴致できるようにする場所であるにすぎない)。そのための手段として、話の内容が理に合っていなくても、譬喩が滅茶苦茶になっても、子どもたちが腰を上げて行動することが最優先なのである。これまた社会の反映であるところの子どもたちはメンタルの弱いギャング的な集団になりがちであり、信じがたく悪意に満ちあふれた子どもというのもいる。潜在的にはつねにそういう子どもからの心理的な脅迫に耐えなければならないのが教師である。子どもたちの一部は「現実の説明」をしても腰を上げない。腰を上げてもらうためには、話を異様にまとまりのある何だか「うまい話」が先にありそうな命令にしなくてはならず、――そのために、それ自体完結した譬喩や権威としての警句やら金言が用いられる。言うまでもなく、それは命令に潜む矛盾が露呈しないための方策であり、籠さんの場合は「教育勅語」だっただけだ。現時点での教育現場の教師に求められているコミュニケーション能力というのは、そういうきれいごとではすまされない側面をもともと孕んでいる。最近は、特にこの傾向が強まっているような気がする。教師は程度の差こそあれまともではいられないのだ。しかし、学生時代きちんと学問をした教師は、調子に乗って、豊葦原千五百秋瑞穂国の説明を振りかざしたりしないものである。教育学部における学問は、そういう暴走を防ぐために絶対に必要である。

子どもたちも教員も、社会の影響を過剰に受けている。学校が閉鎖的だなんてとんでもない。それは我々の社会が縮小されて監獄じみているにすぎない。先生が妙な嘘くさい演説で子どもを支援(強制)するようになっているとすれば、先生が、最近の流行の「人を強制するための作法」を模倣しているにすぎないのだと思われる。確かに先生の強制する内容は、まだ他の機関のボスの言うことに比べれば、人権とか善意にあふれたものであるかもしれないが、やり方は社会の反映であることが多いのではなかろうか。そもそも一般的に真偽を無視して命令を出せるというのが、「親分」の特徴である。やくざ映画を観りゃわかる。「白を黒といわれても親分の…」というやつである。真偽を超えられるところに我々は恐怖を抱く。トランプも安倍もある種の左翼もそうやって人を脅しつけているだけである。今回のおやじもその類だ。

というわけで、私は、自分の関係する業界のあれな感じを思い出して心底嫌な気分になったが、しかし、先生方の大多数はさすがにあれではない。子どもに寄り添うとかいうスローガンは私は嫌いだが、子どもを心配して眠れないのが多くの先生たちである。やはり今回の例は別種の出来事だ。主犯が誰なのかは分からないが、政治家とつるんで愉快に事を進めていたら、思わぬ横槍が入ってびっくりしたが、最後は、全国放送で思い切り恐怖をばらまけたのだから、彼らとしたら大成功なのかも知れない。そもそも、この事件は、教育問題というよりは政治家と森友おやじの癒着の問題だ。マフィアの政治介入みたいな話題である。そう考えたら、まあ、昨日youtubeで「政治家の皆さんは嘘つくんじゃないよ」と脅したおやじには、今日の午後までには金が渡っていると考えるのが、普通の感覚であろう。私が「ゴッドファーザー」の作者ならそう考える。恐ろしいねえ……

青春よ、若さよ それは春の日の美しさ

2017-03-09 20:21:31 | 思想


青春よ、若さよ
それは春の日の美しさ
ファシズムにおいてこそ
われらの自由は救われん
――「青春よ若さよ」
https://www.youtube.com/watch?v=3erP5gnUogg

こんな歌。

わたくしは、日本というのは、ちょっとイタリアに似ていると思っているところがあるので、上のようなイタリアファシズムの研究などを読んで勉強したこともある。例えば、1919(大正8)年にでた「戦士のファッショ」綱領などを読んでみりゃ、あらっ、ということが書いてあるのは面白い。

・選挙権の十八歳への引き下げ
・上院を廃止して職能代表による国民評議会を
・外国の帝国主義に抵抗して、イタリアの意思と能力を発揮させる対外政策を……
実質的な八時間労働
・最低賃金を決める
・工業の運営に労働者を参加させる
・サービス機関の運営を道徳的・技術的にすぐれたプロレタリアートに任せる
・職業によって労働の年齢制限撤廃
・地主に耕作を義務づけ
・義務教育制――非宗教的な「国民意識」を育成=プロレタリアートの道徳的文化的向上
・国民軍創設

などなど……。いろいろ最近の我が国に似ているので面白いが、この綱領が労働者革命を志向していることだけではなく、この綱領をぶちあげた人たちが「塹壕から復員」してきた者達だったことは重要であろう。しかし、彼らの「暴力を辞さず死線を越えて頑張る」みたいな精神がすぐ暴走できるほど、安定した社会は甘くない。他の復員軍人ともそりがあわなかった。ところが、ある選挙で社会党が勝った時に、その就任式に襲撃をかけたファシストがいて、そのときなぜか分からんが世論がファシストの方に喝采してしまう。たぶん、彼らが既成左翼に襲撃をかけてくれたからからかな?そしてなんだか連鎖反応のように彼らとは直接関係がない「地方ファッショ」を決起させてしまう。自信を得た彼らは所謂「懲罰遠征」をはじめて各地方の社会主義の団体を撃破して行く。しかし、彼らは政治に関しては素人なので、それゆえに暴力と脅迫をもって頑張ろうとしてしまい……(以下略)

だいたい、こういうことが上の本には書いてあったと記憶する。

大学や官庁でもみられる現象であるが、ファッショ的な雰囲気の醸成には、専門外の素人のがんばりという点がある気がする。そこには兵士・労働者としての悲しみとプライドが賭けられているのだ。そして、それを利用しようとする輩がそのまわりに集まってくるのである。かくして、なぜか組織の中で一番できないやつがいつの間にかトップになっており、彼の知能に合わせて物事を進めなければならない地獄の日々が始まるのである。

最近、話題の籠池なんとかさんも、あまりにも人間的にあれにみえるとはいえ、ある種かかる「頑張り屋」だったのであろう。ただ、なぜ教育勅語を暗唱させるとか体罰も辞さずみたいな妙な方向に行ってしまったのであろうか?教育者としては、思想が問題でもあるが、なによりもやり方が素人くさいのである。教育者はだいたい、妙なスローガンを掲げることも多いが、それをうまく使う技術が必要である。それがないと仮にスローガンがまともであっても全く効果はない。例えば、中学一年のときに「学校一番のクラスになろう」とか、担任の若い先生がクラスの目標として掲げていたが、私はこのスローガンをみた瞬間に虫酸が走ったので、一年間いらいらし、勉強に身が入らなかった。あ、これはスローガンがだめな場合だった、すみません……

自分を含めた子どもとの共同体をどうつくるかという課題は、現時点では教育者なら避けて通れない。現実的にまあそうであろう。籠池なんとかさんも示唆したいところだろうが、何かこう、つっかえ棒みたいなもの(生きる上でのスローガン)が必要で、だからこそ個人が「強く」なるのだという理屈は、たぶん明治政府が意識していたことでもあろう。我が国には、しかし、これを主体的・内発的に作り上げたというフィクションがないし、たぶん能力もない。つまり根本的に「弱い」。だから権威ある明治天皇に言わせてと……という感じだったにちがいない。

ただ、問題は、「爾臣民、父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信ジ、恭儉己レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、學ヲ修メ業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ、進デ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵ヒ、一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ。」という文言が、箇条書きではなく、ひと繋がりだということに良く現れている。十二の徳目とか言うけど、これは十二もなくて一つしかないのだ。父母や兄弟や、国法や「緩急ア」るときなどの各観点の内実を道徳的すなわち批判的にとらえる余地がなく、全体としてなんとなく「臣民たちよみんな仲良く扶翼せよ」みたいな文になっているのが問題だ。扶翼とは支援することみたいな意味であるが……、また出たよ、「支援」が。それはともかく、その「支援」の対象は「天壤無窮ノ皇運」で、そんな幸運な皇運があったのかどうか知らないが、仮にもそれが正しいと思うなら、それ単独で主張すれば良いものを、なんかそれだけだと弱いので、父母とか兄弟とか朋友の価値――一見みんなが疑いそうもない儒教的な何かをくっつけてるとしか思えない。しかし、その父母とか兄弟とか朋友が、無条件で良いものではないことは、それこそ幼稚園児だって知っていることである。したがって、上のせりふ通りに生きようとすれば、とにかく周りの人間にニコニコ「支援します」的な態度でやたら「せさせていただきます」の如き自尊敬語みたいな言葉を振りまき感情を押し殺していればいいことになる。そして、我々は本当はそれが処世術であることを自覚しているので、陰で過剰に利己主義的になって行くのである。戦時中がそうだったではないか、そして今もそうではないか。

要するに、「教育勅語」は、父母とか兄弟とか夫婦とか友人――我々の争いの種につねになるものである――に対する道徳について試行錯誤する余地を否定し、つまり道徳の生成ではなく道徳そのものを抑圧することこそが目指されているのである。というわけで、教育勅語をバラバラに分解し、道徳として脱構築することこそがこれからなされなければならない――なわけはないのだが、やってみることにしよう。

①朕(以下略)……天皇に言われてやるというところがまず、アクティブラーニング的に、いや近代以前的であかん。だいたい、幼児に「教育勅語」をいわせてどうするのだ、主語は「朕」だぞ。不敬でつかまるぞ……(この前、宮台真司もそういうこと言ってたな……)要するに、籠池のやっていたことは、「教育勅語」を爾に言わせている俺は天皇みたいに偉いという訳分からない循環的表現だ。

②「父母」から離れた方がよい場合が多いことは、もう自明の理だろう。私の妄想であるが、最近反抗期がなくなった子が多いというのは、親と仲良くしなきゃいけないと言われているからじゃないのかね?馬鹿な親は否定しなきゃいけないに決まってるだろうが。

③「夫婦相和し」の反動性については、さんざフェミニストたちが言い立てたからもう常識的であろうが――、誰かも言っていたが、これはむしろ男が、ロミオや譲治なみの這いつくばり的ラブをしなくてもいい理由にもなっている。日本人の愛のかたちの可能性をだいぶ削いでいると言えよう。

④兄弟が仲良かったら、天皇の歴史はずいぶん変わっているだろうが、それは無視するのか?

⑤朋友相信じ、られる訳ないだろうが。モリ友「ズッ友だよ……」(笑)https://matome.naver.jp/odai/2133648865927163301

⑥恭儉己レヲ持シって、己の確立もしていない奴がヘイコラしても何の意味もなしというか、かわいそうですよ……。だいたいこういうことを言う輩こそ威張り腐っており、自分以外に謙虚さを求めるのである。にも関わらず、自分は謙虚だと思っている。なぜかというと、大概、大ボスに随伴して「一生付いてきます」みたいな態度をとるところから出発しているからだ。しかしそういう態度が端から見ていてどうみても「俺の言うことこそ正しい」という態度に見えることは言うまでもない。ホントの謙虚さは、謙譲の美徳ではなく自己批判からしか出て来ない。つまり、容易に人にヘイコラしない人ほど実際は謙虚なのである。この場合、大ボスが誰であるかは自明の理なので省略。

⑦博愛衆ニ及ボスのがきついから、トランプが出てくるんですよ。ていうか、恭倹と博愛がセットになった人って、結局、何もしなさそうですね。実際しないでしょう。実際は、博愛は自由人の精神であるからして。

⑧学を……、勉強なんかしなくても別にかまわないんですけど……、あそうだ、お偉方は別。

⑨「以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ、進デ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵ヒ」……役人はちゃんとボスへの忖度ばっかしてないでちゃんと仕事をしましょうね。

⑩「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」。日本史を復習してから検討いたしますので、あと四〇年くらい待ってください。また、相手に理があった場合はお断りだ。

……というわけで、「教育勅語」というのは、「みんな仲良く時代や天皇に従って」みたいな陰険な人々にとっては現実の説明として単に自明の理であろうが、よくよく考えてみると自分で考えようとする少数派を無視し、場合によっては不正義を働く輩(親兄弟ズッ友夫/婦など)を免罪する仕組みになっていて、一箇所もいいところはない。ここまでくると上のファシストがよく見えてきたが、なぜかというと、まだ少数派に対する顧慮があるからだ。――本当はないのだが、それでも教育勅語よりはまだ多数派に対するファイトが感じられる。(そういえば戦前から、「教育勅語」がなんとなく教えとして一般的で「弱い」ので何とかしようという動きはあったのである。しかし、上記のように、この「弱さ」があるから、教育勅語は好まれるのだ。)外山恒一とか絓秀実が言いたいのはそんなニュアンスだろう。というのは、冗談だが、――籠池なんとかさんや、稲田なんとかさんとか、教育勅語がいいとか他人の褌で威張らないで、自分の感情にちゃんと目覚めることが必要である。謙譲や友情や忠義など、他人にたよる道徳で人を支援(強制)する必要はなく、自分の弱さがどういう点にあるのか、それだけにまずは集中してもらいたい。これは、教育者のみなさんに言いたいことでもあるし、私も日々心がけようと思うことでもある。なかなか難しい訳だが……。ただ、そこに「空」としての自我を見出してみたり、やはり「神様」的なものが必要だといった、エリート然とした利いた風な結論に容易に達しないで欲しい。まともな多くの人は、そんな精神的地点で興奮しなくてもなんとかやっているのである。思い上がらないでもらいたい。

まあ、イタリアのファシストたちもプロレタリアートの「道徳的」向上とか言っていたわけだから、われわれと似たり寄ったりなのだろうけれども、あっちはあっちの事情があるから、我々の参考にはならない。

分からない8

2017-03-08 23:20:51 | 音楽


千人針が何の効果もないように千人で演奏したところで何の意味があるのであろうか、という陰口はたたかれているのであろう――マーラーの交響曲第八番。はじめて聴いたのは小六の時で、学校の合唱部で頑張ってたころである。確か、ショルティ指揮ウィーン楽友協会の有名な演奏だったと思うが、とにかく最初の印象は「各声部が分からんな……」であった。中学になって松本でスコアを買ってきて、眺めてみたところ、なるほどよくわからんが音が多い、という感じであった。実演を聴いたことがないからよくわからんが、これはもはや室内楽でやった方がいいような曲ではないか……。

第Ⅰ部と第Ⅱ部に分かれていて、この関係性についてはよく分からんが、たぶん研究がいろいろありそうだから今度調べてみよう。わたくしは、既にこの曲はトーマス・マンの「ファウストゥス博士」みたいなところがあると思う(適当)

上は、ブーレーズ氏が昔BBCと演奏したもので、聴衆の熱狂がなんだかすごい。いつもすごいか……。一人のソリストが調子悪くて苦しげな演奏になってはいるが、そこが逆に第Ⅱ部の存在を不気味におもわせいい感じなのだ。ファウストは死んでるんだからね……よく分からんが……。



2017-03-07 23:12:30 | 音楽


ベートーベン、ブルックナー、チャイコフスキー、シベリウス、グラズノフ、マーラー、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、彼らの交響曲第「5」番はみな人気曲である。

マーラーのそれは、自分の交響曲を1番から順にパロディにしているかのような、やたらとっちらかっているような曲想が続き、4番の緩徐楽章よりもさらに淫靡なアダージェットで青春の悔恨に浸っていると、最後の第「5」楽章が、複雑なポストモダン建築がスポーツカーの運転をしてるみたいな(もう訳分からない比喩になってしまったが)とんでもない曲であり、「おおおっ」とびっくりしているうちに大団円を迎える。カラヤンもさすがにこの曲に関しては、大げさな加速をしたりしておるぞ。いつもやってるか……

私は、むかしチューバや(バス)トロンボーンをやっていたのであるが、この二つの楽器のところだけスコアで追ってみると、素晴らしく吹きたくなる(ちゃんと吹ければな……)箇所が目白押しで、マーラーという男、奏者の快感まで計算に入れていることがよく分かる――気がした。