★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

うたてしやな

2018-08-28 23:13:28 | 文学


最近まで、タマラ・ド・レンピッカの絵を、アメリカのどこぞのデザイナーが描いたものだと思い込んでいたわたくしであった。文学における匿名性とか無名性の議論は大変やかましいものであったが、考えてみると、我々は作者のことに興味がなけりゃだいたい匿名でも無名でもなんでも同じことだ。この程度のことに最近気づいたのであるから情けない。2(5)ちゃんねるの世界には我々は耐えられない。匿名でも自分にとっては自分は匿名ではないからだ。始まったものは止められない。考えてみると、表現することというのは思いの外おそろしいことなのである。

「田舎の児、桜の散るを見て泣く事」(『宇治拾遺物語』)は、高校生すら習うことのある話だが、解釈が難しいことでも知られているようだ。高野山にきた稚児が、強風で桜の散るのをみてさめざめと泣くので、坊主が、

などかうは泣かせ給ふぞ。この花の散るを惜しう覚えさせ給ふか。桜ははかなきものにて、かく程なくうつろひ候ふなり。されどもさのみぞ候ふ

と言った。だいたい、桜をみていきなり泣き出すのが妙である。焦った僧が「桜ははかなきものにて、かく程なくうつろひ候ふなり。」と一般論を言ったところで、こういうことを表現した多くの天才的表現にくらべて、あんまり優れた表現とは言えず、そもそも逆に泣く根拠を説明した感じになったので、――僧もあわてて「されどもさのみぞ候ふ」などと決めぜりふを言ってしまったのであろう。

わたくしも、自分を間接的に責めているような女子が目の前で泣くのにたいして、「よくわからんが、この世はそんなもん」とか言うて、墓穴を掘ったことがあるが、――、誰かも言ってたように、高野山に来た稚児は、僧に囲われていた男色のための稚児である可能性があり――、そうだとしたら、僧としては、泣かれたことそのものにかなり重い意味があったとしか思えない。

桜の散らんはあながちにいかがせん、苦しからず。我が父の作りたる麦の花散りて実の入らざらん思ふがわびしき


近代文学の徒としては、麦をつくる農民に寄り添いたいところであり、麦の花の方が美しいのだといきり立つ必要も出てくるのかもしれないが、語り手は結局、

さくりあげて、よよと泣きければ、うたてしやな。


こう話を終わらしているだけであった。で、この「うたてしなや」の解釈がやっかいなのだ。

とにかくどうしたらいいかわからんので、僧は困ってしまったにちがない。なにしろ、桜より麦の花だよ、ていうか実がならないよ父ちゃんは生活に困るよ、と「違うし」とは言えないことを言われたあげく、しゃくり上げて泣かれたのだから、困ってしまう。さめざめどころではなくなってしまったのである。実際は、僧がうまいものでも食べさせて黙らせたとみた。しかし、そう書くわけにはイカンだろう。困った語り手は、もっともらしく「うたてしなや」と言ったに違いない。

こういうやり方をあまりわたくしは逃げだとは思わない。本当のことをかこうとすることの恐ろしさを、昔の人は知っていたのかもしれない、とも思った。