★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

半分、同感

2018-08-19 23:37:35 | 文学


https://blog.goo.ne.jp/mimasaka_chiko/e/f85b557ea1143493a8f762ff911abfb4


妹の例の会

望月理子氏の『日本文学』所載の論文を読んだから、「猫の事務所」を読み直してみたが、昔読んだときと同じく、いやな話であった。結末部、「僕は半分獅子に同感です」と話者は言うが、何が「半分」なのであろう?「半分」などというてすむ話かにゃん

しかし、ある種の教育分野の論文を読むと、この「半分同感です」みたいな論旨が多く、なぜその先に行かないのか合点がいかないことが多い。もっとも、これは時間的な問題かもしれない。先生方は、その先に行く時間的余裕がないのだ。

大学時代、研究会の先輩だった人がよく『日本文学』に書いているので、時々読むのだが、――教育現場で「その先」に行こうとするとすごく精神的に追い詰められることがよくわかる。実際、その「半分」という認識が何を生むかというと、人間に対する認識が明確になるのではなく、二つに、割れる――つまり、問題がもうひとつ増えるということを意味するのである。クラスに三〇人生徒がいるとすると、だいたい六〇人ぐらいの雰囲気だ。複数のグループがアメーバみたいに移動しているから、それを考慮してまた「半分、同感」みたいな考え方をしてみると、だいたい一二〇人ぐらいに増える。先生方はこれにはおそらく耐えられないし、実際に耐えてもいないのが現状であろうと思う。その「半分」という認識形式が間違っているのである。

芥川龍之介の「鼻」のネタになった「池の尾の禅珍内供の鼻の語」(『今昔物語集』)は、内供の鼻を棒で支えていた童が、つい鼻を汁のなかに落っことしてしまい、「お前は、あたまがおかしいのかっ」と激怒した内供が

「我にあらぬやむごとなき人の御鼻をももたげむには、かくやせむとする。」

と言ったところ、童は陰で

「世にかかる鼻つきある人のおはさばこそは、外にては鼻ももたげめ。をこの事仰せらるる御坊かな。」

と云った。語り手は、

「此れを思ふに、まことにいかなりける鼻にかありけむ。いとあさましかりける鼻なり。童のいとをかしく云ひたる事をぞ、聞く人讃めけるとなむ語り伝へたるとや。」


と話を締めるのであった。思うに、話者がわざわざ「まことにいかなりける鼻にかありけむ」とか言っているのは何なのであろう。この童の発言は、本当にそんなに「をかし」いものであろうか。だいたい内供の鼻がどんなであったかは、ここまでの話でクワシク描写してるのでよみゃわかる。むしろ話者は、「世にかかる鼻つきある人」、実際は「やむごとなき人の御鼻をももたげむ」様を想起させたかったのではなかろうか。この童の話で盛り上がったど大衆が何で盛り上がっていたのかを書いていないのは卑怯なり。実際、この話を学校で読ませてみりゃ、自分の鼻に筆箱や消しゴムをくっつけて遊ぶ輩がタケノコのように生える(知らんけど)

考えてみると、内供はたぶん何か病気だったに違いないのだ。まったくかわいそうである。それをまた「半分同感」であるみたいな態度をとった芥川も大概であった。童にこびたふりをする今昔の話者もいやなやつである。

破廉恥とか第六夜とか

2018-08-18 23:04:18 | 漫画など


「ハレンチ学園」というのも今回初めて読んでみた。途中で有名な「スカートめくり」についての回があって、これが例の騒動のあれか――と思った次第だ。確か永井豪は、このとき自身が受けた社会的制裁について、エロの問題より、教師の権威を失墜させたことの方が問題だったのではないか、とどこかで述べていたように思う。確かに、作品の雰囲気は、当時の学園紛争の影響もあって、学校を解放区として描くことを目的としているように思うが、当時の解放区で起こったあれこれについては、フェミニズムからも強烈に告発されている通りであり、そう問題は簡単ではない。考えてみると、「マジンガー」とか「デビルマン」でさえ、おんなじようなラディカルさを持ち、同じような問題もはらんでいるのだが、「ハレンチ学園」には別種のラディカルさがあったように思われる。

しかし、――ビューナスAのロケットはよくて、ハレンチ学園の表現がダメだということを説明するのは、ある種の「常識」にとっては容易だが、思想的には難しい問題だと思う。判断が難しいのではなく、歴史的経緯や表現としての説明が難しいのである。学校ではなぜ物事が生々しく生起するのか、といった問題に持って行きたい人もいるであろうが、わたくしはちょっと別の角度で考えようと思っている。

そういえば、先日、学生と漱石の「第六夜」について話をしたことが気になっていたのだが、今日、偶然、永井聖剛氏の論文に同じようなことが書かれていたのを発見した。永井氏の論文は整然としたものであった。

轡虫に同情するやつはたぶんヘタレ

2018-08-18 15:38:55 | 文学


 草の中で虫が寄り合って相談を始めました。
 蟋蟀が立ち上って、
「鈴虫さん、オケラさん、スイッチョさん。もっとこちらへお寄りなさい。だんだん涼しくなりますから、みんなで合奏会をやってお月様にきかせようではありませんか。きっと御ほうびを下さいますよ」
 と言いますと、皆パチパチと手をたたきました。
 虫たちはそれからすぐに合奏を始めました。
 まずスイッチョが草の天辺へ立ち上って真面目腐って、
「スイッチョ、スイッチョ」
 と合図をしますと、オケラが土くれの蔭に坐ってしずかなこえで
「リ――リリ――」
 と羽根を鳴らします。それにつづいて蟋蟀が草の根本から涼しい声で、
「チンチロリン、チンチロリン」
 とうたい出します。その中へ鈴虫が又やさしい長いひげをふりまわしながら、
「リーン、リーン、リーン」
 と鈴の音をさせます。
 その静かでおもしろいこと……ちょうどそのとき東の山からお昇りになった十五夜のお月様は、感心のあまり虫たちが大好きな露をたくさんにそこいらの草の上に撒いておやりになりました。
 ところへ一匹の轡虫が飛び込んで来ました。
「何だ貴様たちは! おれを仲間外れにして音楽会をやるなんて失敬なやつだ。そんなことをするならおれがまぜ返してやる……ガチャ、ガチャ、ガチャ、ガチャ」
 と大きな声で騒ぎ始めましたので、せっかく始めた静かな美しい音楽会がメチャメチャになってしまいました。
 その勢いに驚いて、あつまっていた虫たちもみんな逃げてしまいました。
 轡虫は大威張りでそこいらの露をヤタラに吸いながら、
「それ見ろ。おれの音楽にかなうやつは一匹もいまい。おれは夜鳴く虫の中で一番の大きな声なんだ。みんな感心したか……ガチャ、ガチャ、ガチャ、ガチャ、ガチャ」
 とたった一人一所懸命にやっているうちに、
「お兄さま。あそこにガチャガチャがいますよ。大きな声をしているから遠くからでもわかりますよ」
 と言う人間の声がすぐそばできこえましたので、これは大変と、急いでガチャガチャ言うのをやめていると、間もなく頭からポカリと袋をかむせられて籠の中へ入れられてしまいました。

――夢野久作「がちゃがちゃ」



其の盗人にもまさりたりける心にておはしける

2018-08-17 23:13:17 | 文学


「阿蘇の史、盗人にあひて謀りて逃げし語」は、教科書にも載っている『今昔物語集』の有名な話の一つである。夜勤で帰りが遅くなった背が低い(←ウルセー)四等官が、盗賊の襲撃に備え、牛車の中ですっぽんぽんになり、衣装を隠して待っていたところ、美福門のあたりで案の定盗賊たちに取り囲まれてしまった。盗賊どもは、それっとばかり中を覗いてみると、裸のオヤジがいるばかり。

盗人、あさましと思ひて、「こはいかに。」


思うに、この盗賊があまりにもナイーブなのだ。「あさまし」→「こはいかに」って、小学生かよ。大人の盗人なら、びっくりなどせずに、「汚き姿態こはいかに、蚰蝓えせ板敷の箒殿上のがうし」とかなんとかいいつつぶん殴っているところだ。隙ありとみた裸体オヤジ、

「東の大宮にて、かくの如くなりつる。君達寄り来て己が装束をば皆召しつ。」と、笏を取りて、よき人に物申すやうにかしこまりて答へければ、盗人笑ひて棄てて去りにけり


確かに面白かったのであろうが――、笏をとってポーズをとってしまったのは、いつもの幇間的習性であったかもしれない。幸運なことに、盗賊どもの笑いのセンスは小学生並みであったし、「羅生門」の下人をあげるまでもなく、服を盗れないのは重大問題だ。而して、無事に家に帰れたオヤジである。で、奥さんにこう言われた。

「其の盗人にもまさりたりける心にておはしける。」


ここで奥方は「盗人より勝っている心でおはしけるっ」と言っているのであって、このオヤジが、語り手が最初に言っているように「魂はいみじき盗人にてぞありける」とは限らないと思う。古典学者の方はどう考えるか分からんが、魂が盗人じゃイカンじゃあないか。

確かに語り手も躊躇いがあったみたいで、

「まことにいとおそろしき心なり。装束を皆解きて隠し置きて、しか云はむと思ひける心ばせ、さらに人の思ひ寄るべき事にあらず。この史は、極めたる物云ひにてなむありければ、かくも云ふなりけりとなむ語り伝へたるとや。」

「おそろしき心」だとか、実は心とか魂がすごいんじゃなくて「極めたる物云ひ」だからすごかったんじゃみたいな見解を披露しつつ語り終えている。

だから、わたくしは、喜田貞吉「時勢と道徳観念 大賊小賊・名誉の悪党」(大正八年)みたいに、当時は盗人は剛胆者のことなんだとか言ったあげく、「時勢と境遇とによって人間の思想も感情も変る」とかいう一般論におとしつつ、密かに乱暴者の名誉回復を為そうとする輩を好まない。いまも政治家や役人など、根本的に盗賊と考えた方がよかろうというんであれば話は別である。確かに、それはそうだ。しかし、だからといって、今も昔も上のような小学生並みのセンスで盗賊をやっているやつが下々に沢山いるというのも、これまた事実である。

デスペア・女

2018-08-16 23:57:07 | 思想


若桑みどり氏の「東京の公共彫刻」についての論文、賀茂道子氏の「ウォー・ギルト・プログラム」論、山崎正純氏の「文脈形成行為と公私の再編成」などを読んでいたら、萩原碌山のことを思い出した。

たしか中学の時、萩原碌山記念館に行ったが――、中学の女の美術の先生が非常に碌山を尊敬していて、その熱情もあってか、碌山の「デスペア」とか「女」が、女の裸像であることにあまり注意を払わなかったと思う。わたくしの記憶だと、「文覚」、「デスペア」、「女」と、飛躍的に芸術的に向上していると先生は力説していたように思うが、当時は納得がいった気がした。いま、写真でみてみると、「女」より「デスペア」が気に入った。

昔実物を見た感じでは――、圧倒的に「女」が優れているように中坊のわたくしにも思われたのだから、いまだって実物を見りゃわからない。

わたくしも、いままでかなり「イコノロジー」的な研究から影響を受けた気がする。だから、初心に帰ってみようと思ったわけである。


心は販婦にて有れば、去りなむと思へども

2018-08-15 20:51:17 | 文学


「近衞舎人共の稲荷詣に重方女に値ふ語」(『今昔物語集』巻二八第一)は、近衛の武官たちが集団で稲荷神社でナンパをしていたところ、あるお調子者が変装していた自分の妻をナンパしてしまった話である。

神社の境内で、このお調子者――重方は、

「我が君我が君、賤しの者持ちて侍れども、しや顔は猿の樣にて、心は販婦にて有れば、去りなむと思へども、忽ちに綻縫ふべき人も無からむが惡しければ、心付に見えむ人に見合はば、其れに引き移りなむと深く思ふ事にて、此く聞ゆるなり」

とかいって口説くのであるが、こんな口説き方が本当によいのかわたくしにはさっぱり分からない。よくわからんが、これは本心なのではなかろうか。なにしろ、この女房ときたら、この馬鹿重方が馬鹿なのは自明の理としても、

うつぶして念じ入りたる髻を、烏帽子超に此の女ひたと取りて、重方が頬を山響く許に打つ。

と、こんな乱暴しなくてもよいじゃあないか。山響く許といえば、たぶん重方の顔面は複雑骨折している。暴力反対。しかも、重方は、いつものナンパ仲間からも裏切られていた。告げ口されていたのである。

「此の主達の、後目た無き奴ぞと來つつ告ぐれば、我れを云ひ腹立てむと云ふなめりと思ひてこそ信ぜざりつるを、實を告ぐるにこそ有りけれ。」


だから、このナンパ仲間は、重方が女房にひっぱたかれているのを見つけ、嬉々としてやってきて言うのである。

「吉くし給へり。然ればこそ年來は申しつれ」


お前等もナンパ仲間じゃろうがっ。女房も調子こいて

「此の主達の見るに、此く己れがしや心は見顕はす」[…]「己れは其の假借しつる女の許に行け。我が許に來ては、必ずしや足打ち折りてむ物ぞ」


と、恐ろしいことを口走るのであった。この調子なので、この女房、重方が死んでからも再婚したそうである。

安部公房の「他人の顔」の主人公は、ケロイドを隠した仮面をかぶってでも女房を誘惑しようとしたが、「はじめから知ってたわ、このクズっ」と手紙で知らされ、「今に見ておれ、これからお前を襲うのは野獣のような仮面じゃけえのう」とかいって、いまだに妻への愛情を示していたが、どうもこの最後の主人公の姿は、大江健三郎の「性的人間」の痴漢男とあまり違わないような気がする。重方も、女房から酷いことをいわれたに違いない。で、女房と似た体型の女をやけくそでナンパしたら、本物の女房だったのではなかろうか。だいたい、この女房は、稲荷神社で変装して何をやっていたのだ。お前もナンパをしようとしていたのではないか。

というかんじで、乱暴な言葉と態度でコミュニケーションをしていると、後世の人々によって「逆に、お前が悪い」などと解釈されがちです。よいのは沈黙と歌です。

いくそたび君がしじまに負けぬらむものな言ひそといはぬ頼みに(末摘花)

川だなんて、ひどいじゃないか。

2018-08-14 23:08:50 | 文学


 東京の三鷹の家にいた頃は、毎日のように近所に爆弾が落ちて、私は死んだってかまわないが、しかしこの子の頭上に爆弾が落ちたら、この子はとうとう、海というものを一度も見ずに死んでしまうのだと思うと、つらい気がした。私は津軽平野のまんなかに生れたので、海を見ることがおそく、十歳くらいの時に、はじめて海を見たのである。そうして、その時の大興奮は、いまでも、私の最も貴重な思い出の一つになっているのである。この子にも、いちど海を見せてやりたい。
 子供は女の子で五歳である。やがて、三鷹の家は爆弾でこわされたが、家の者は誰も傷を負わなかった。私たちは妻の里の甲府市へ移った。しかし、まもなく甲府市も敵機に襲われ、私たちのいる家は全焼した。しかし、戦いは尚つづく。いよいよ、私の生れた土地へ妻子を連れて行くより他は無い。そこが最後の死場所である。私たちは甲府から、津軽の生家に向って出発した。三昼夜かかって、やっと秋田県の東能代までたどりつき、そこから五能線に乗り換えて、少しほっとした。
「海は、海の見えるのは、どちら側です。」
 私はまず車掌に尋ねる。この線は海岸のすぐ近くを通っているのである。私たちは、海の見える側に坐った。
「海が見えるよ。もうすぐ見えるよ。浦島太郎さんの海が見えるよ。」
 私ひとり、何かと騒いでいる。
「ほら! 海だ。ごらん、海だよ、ああ、海だ。ね、大きいだろう、ね、海だよ。」
 とうとうこの子にも、海を見せてやる事が出来たのである。
「川だわねえ、お母さん。」と子供は平気である。
「川?」私は愕然とした。
「ああ、川。」妻は半分眠りながら答える。
「川じゃないよ。海だよ。てんで、まるで、違うじゃないか! 川だなんて、ひどいじゃないか。」
 実につまらない思いで、私ひとり、黄昏の海を眺める。

――太宰治「海」


……太宰は知らなかったかもしれないが、浦島太郎は海から帰ってきて、木曽川の淵に晩年を過ごしたという説があるのだ。浦島太郎で子どもの気をひこうとしたあんたが悪い。

病付きて有りしを、あつかふ人も無くて、此の夏失せにしを

2018-08-13 23:48:43 | 文学


「人妻、死して後に、本の形に成りて旧夫に會ひし語」は、『今昔物語集』の巻二七第廿四である。わたくしなんかが、離婚に至る夫婦をまだよく想像できないのは、必ずや相手が祟ってくるような気がするからである。大学の頃ある小説まがいを書いたが、――それが、この今昔の話に似ていた。わたくしの感性は、私が生まれ育った昭和時代からはかけ離れている。そしてそれは今時ではなく、今昔物語の頃のセンスに近いことが判明したのだ、あーこりゃこりゃ

京都在住のある貧乏侍は、友人が出世したので彼のもとに行くことにした。

かくて京にありつく方も無くて有るよりは、我が任國に將て行きて、聊かの事をも顧みむ。年來もいと惜しと思ひつれども、我れも叶はぬ身にて過ぐしつるに、かくて任國に下れば、具せむと思ふはいかに


某豊太郎もそうだが、こういうときに半端なインテリは「ハイ」と言ってしまう。彼もそうであった。で、ついでに今まで親しんだ女を捨てて羽振りのいい女に乗り換えたのである。しかし、遠国で思うのは捨ててきた女のことばかり。ついに帰京した彼が女の家を訪ねると、荒れ果てた屋敷に女が待っていた。そして楽しくお話などしたあと、一緒に寝た。朝になった。

男、打驚きて見れば、掻き抱きて寢たる人は、枯々として骨と皮とばかりなる死人なりけり。此はいかにと思ひて、あさましく怖しき事云はむ方無かりければ、衣を掻き抱きて起き走りて、下に踊り下りて、若し僻目かと見れども、實に死人なり。

しかし、この話のクライマックスはここではない。近所の人に聴いてみると、

「其の人は、年來の男の去りて遠國に下りにしかば、其れを思ひ入りて歎きし程に、病付きて有りしを、あつかふ人も無くて、此の夏失せにしを、取りて棄つる人も無ければ、未ださて有るを、恐ぢて寄る人も無くて、家は徒らにて侍るなり」と云ふを聞くに、いよいよ怖しき事限り無し。

まさに、恐怖は、死体にあったのではなく、彼が未練がある女を捨てたことの帰趨そのものにあった。「取りて棄つる人も無ければ、未ださて有る」ことが、彼が女を捨てたことに対する意識そのままに重なっているのであり……

これに比べると、某豊太郎なんか、相手を偏執狂扱いにしたあげく、自分の頭に友人への恨みがあってなぞと、のんきなことを言うておる。こういうセンスであるからエリスをほっぽってきてしまったのだ。わたくしに比べて鷗外はかなりの近代人であったのであろう。

甲子園惨敗速報2018夏

2018-08-12 23:31:13 | ニュース


甲子園大会はもう100回目だということですが、そんなことは完全にどうでもよく、今年もわたくしが以前暮らした県がいかに惨敗して行くかという夏でございます。中間報告です。

長野吉田(長野)10-0木曽青峰(長野) ……ど、どんまい

山梨学院(山梨) 12-14 高知商(高知) ……信玄対龍馬、サブカル的にいって龍馬の勝ち

旭川大(北北海道) 4-5(14回)佐久長聖(長野) ……ところで松商学園はどうしたんだろう……

日南学園(宮崎)2-0丸亀城西(香川) ……おしいっ。もう一回相手が受験勉強に疲れた高松高校だったらいけたはずだ、なわけはないのだがそれはともかくにこにこ顔のエースに惚れた

興南(沖縄) 6-2 土浦日大(茨城) ……ところで常総学院はどうしたんだろう……、惨敗したんですね

白山(三重) 0-10 愛工大名電(西愛知) ……愛知は空気読めよ。お隣さんだろうがっ

ちなみに第50回の様子↓
第50回全国高校野球選手権大会(1968年) 抽選会~開会式【HD】


行進とか選手宣誓はこっちの方がいいわ。

おまけ↓
"貴ノ岩に厳しい貴乃花親方"のモノマネをする松村邦洋

愛のテンションとは、ワゴムをひっぱった状態を思い浮かべてほしいのだが

2018-08-11 23:51:09 | 思想


イヴァン・イリイチについて教科書的なことを確認していたら、とつぜん山本哲士の『ジェンダーと愛 男女学入門』のことを思い出した。大学院一年生の時に、演習の合間に一応読んだが、何のことやらよく分からなかった。ただ最後に、「愛のテンション」とか山本氏が言い出し、

愛のテンションとは、ワゴムをひっぱった状態を思い浮かべてほしいのだが[…]緊張関係にあるテンションは、問題を解決することではなく、そうした状態でもってものごとに実際に=プラチックに対処してゆくことだ。

とか書いているのをみて、うるへえな、と思ったことは確かである。ここで素直にうなずいていたら、わたくしもどこかでフェミニズムを用いた論文でも書いていたかもしれない。いまではちょっと想像できなくなってきたが、当時、ジェンダーという武器を手にした者のなかには、吉本隆明の流れを汲む面白いアマチュアリズムの雰囲気をたたえた人々がいた。上野千鶴子だってそうだったし……。

そういえば、いまよりも大学自体がアマチュアリズムを大事にしてたところがある。大衆化によって、それがなくなった。

蔵るること景の滅ゆるが若く、行くこと猶お響きの起こるがごとし

2018-08-10 23:23:08 | 文学


高橋和巳に、陸機を引用しながらの「愚昧への道」という文章があるが、これを読んでいたら、あることを思い出したので調べる。

最近、痛感するのは、作品の読みをちゃんとやれないようになると、物事を連想でしか語れなくなるという事態である。これは文学への志ではどうにもならない問題であって、高橋和巳もそれを自覚していたような気がする。ただ、かれの関心の中心がそこになかっただけのことであろう。わたくしは、高橋氏は、酒の量を減らしてでもちゃんと教員をやるべきであったと思う。彼がある意味こけたので、後に続く者が、中途半端な不良じみた態度を身につけ、まじめに勉強することを忘れて今に至る。どうしようもない。

GOのあと

2018-08-09 23:20:27 | 映画


「GO」とは、金城一紀の小説で、映画にもなった(2001)が、わたくしは残念ながら、さいきんまで「GTO」と混同していたため観ていなかった。


「GTO」は、もと暴走族のにいちゃんが高校の先生?になってなんとやらという、いつもの、勉強のできない方々の夢を描いた作品で、原作ではたしか主人公の童貞設定までくっついており、勉強もできずコミュ力もない方の夢もかなえようという作品であった。

ちなみに、わたくしはこのG★Oも観ていない。さっきウィキペディアで調べて知ったかしているのである。しかし、この作品にでていた反町某とヒロインの松嶋某がリアルに結婚してしまったのは知っている。

世の哀れな勉強=コミュ力不足の方々を尻目に、イケメンと美女はそんな感じで幸せになっていくのであった。

という訳で、「GO」は全く異なる作品であり、研究者にも一種のはやりの分野に適合する作品として論じられることもあるが、作品自体は結構面白い。映画も思っていたよりも面白かった。デビュー当時の窪塚洋介というのは怪しいアウラの塊のような感じで、「池袋ウエストなんとか」や「凶器の桜」とかが面白かったのは彼のおかげである。最近の「沈黙」も彼がいたから傑作になっているようなものである。

いま「GO」をみると、0年代にちょっと容易に乗り越えた問題が最近になって回帰してしまった感がある。主人公のコリアン・ジャパニーズの少年は最初はただひたすら暴れている。映画は実は、この前半が面白い。山本太郎や新井浩文と一緒に警察に追いかけられるシーンとかがとてもいい。「パッチギ!」をポップにした趣だ。しかし、朝鮮学校から日本の高校に入った主人公が、シェイクスピアの恋愛小説なんかを読み、――ちょっとお金持ちの「日本人?」柴咲コウと恋愛関係に陥り、自分の国籍や自分とは何かみたいな問いのなかに置かれ始めると急に時間がよどみ始める。最後は、「いや、俺は俺であることすら捨ててやる!クエスチョンだ!ハテナマークだよ!」と叫ぶ主人公が描かれて、柴咲コウも差別を乗り越える。しかし、この物語を経験する観客は――おそらく、潜在的に、前半への回帰を望んでいる。なぜなら、解放と恋愛の甘さはあるが、ある種の強さがそこには感じられないからである。

似たようなことは、「池袋ウエストなんとか」を観たときにも思ったことだ。おそらく、この種の0年代の弱さが今に至るごたごたを生んでいる。思想の強度などと、容易なことを口走るべきではなかった。我々は、常にもっと本質的な弱さに復讐される。

灼熱キャンパス覚え書き

2018-08-07 23:17:17 | 大学


今日はオープンキャンパス。高校生の頃のことを考えると、そんな勧誘にのってたまるかよという気持ちであった――と思い出そうとしたのだが、我々の頃はまだこんなイベントはなかったので思いようがなかった。いや、やってたところもあったのかもしれない。

われわれの社会は、本当は高校生たちの主体性が発揮されることを期待しているかどうか、かなり怪しい。親などは、根本的に子どもの主体性の発動を恐怖しているといってよいだろう。というか、高校生本人達も恐れているのだ。

しかしまあ、実際、その主体性みたいなものをモチベーションとかなんとか「力」みたいな目に見えないものとして考えているからいけないので、目標なんて勉強しているうちにあとから出てきてしまうものではなかろうか。国語の勉強の仕方で、気をつけなければならないのは、こちらに解釈の主体があるという勘違いである。我々が読んでいるのではない。主体は文章にあり受信装置がこちらにあるかないかなのである。それは数学や英語と同じで、ある程度は反復練習によってしか生成されないのではないかと思う。そして勉強に限らずであるが、楽しさとは、その反復の快楽である。

批判的能力とやらも、その受信装置がまともであるときに機能し始める。主体と客体をひっくり返す発想ばっかりしているから……

この前、授業でも言ったけど、読書自体に対する考えかたも、一般的にだいたいひっくり返ってしまっている。言うまでもなく、我々が本を選ぶのではなく、本が我々を選ぶのだ。選ばれるまで読み続けるのが一番早い。

考えてみると、大学入試も大学の方に選抜の主体があるのであった。当たり前だが、いろいろな意味でこれは重大なことである。ペーパー試験はテキスト(本)の行為だが、面接や今話題の点数いじくりは人間の行為である。ちょっとわかりにくいかもしれないが、ここんとこが重要ではなかろうか……

サマータイム(笑)

服部徹也氏と北川扶生子氏の論文を読む。北川氏の論文に書いてあったのだが、確かに女性の移動と性的堕落に結びつくという見方がかつて見られた気がしないではない。ただ、男の場合もそうかもしれない……

Summertime

2018-08-07 13:10:51 | 音楽
Ella Fitzgerald & Louis Armstrong - Summertime - with lyric


サマータイムだかザマーナイワか何か知らんが、うるせえとしかいいようがないわ、すみやかに呪われよ。だいたい、ガーシュインやジャズのひとたちに失礼ですよ。

Summertime
And the living is easy
Fish are jumping
And the cotton is high
Your daddy is rich
And your mamma is good looking
So hush little baby, don't you cry