★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

世々生々忘れがたく候ふ

2018-08-24 23:57:23 | 文学


わたくしが好きな「宇治拾遺物語」の話と言えば、「道命阿闍梨、和泉式部の許にて読経し、五条の道祖神聴聞する事」である。

道命阿闍梨さんは和泉式部とよい仲であった。この方は、『蜻蛉日記』の作者の孫であった。お経が得意で、そのダンディなお声で和泉式部を引っかけたに違いない。しかし、よりによって和泉式部が相手とは、変態的である。

「下もゆる雪まの草のめづらしくわが思ふ人にあひみてしがな」

「庭のまま ゆるゆる生ふる 夏草を 分けてばかりに 来む人もがな」


まったく男をなんだと思っているのでしょうか。草か猪扱いです。

で、その道命であるが、和泉式部とイ㋳らしいことをしたあと、夜中に目覚めていきなりお経を読み出す。よく分かりませんが、三木清が昔、すっきりしてから論文を書くみたいな、――似たようなことを人に語っていたと読んだことがあります。全く、女をなんだと思っているのでしょうか。しかし、この美声に聞き惚れていたのは、隣で寝ている和泉式部ではなく、部屋の外ににいつの間にか来ている汚い爺。焦った阿闍梨――。

「法華経を読みたてまつることは常のことなり。などこよひしもいはるるぞ」といひければ、

だから、そういうことを読者は気にしてるんじゃないの。裸の和泉式部の隣でいつもお経しとるかときいとんの!爺は、

「清くて読みまゐらせ給ふ時は、梵天・帝釈をはじめたてまつりて、聴聞せさせ給へば、翁などは、近づきまゐりて承るにおよび候はず。こよひは御行水も候はで読みたてまつらせ給へば、梵天・帝釈の御聴聞候はぬひまにて、翁まゐりよりて、承りてさぶらひぬることの忘れがたく候ふなり」とのたまひけり。

やはり、欲情にまみれた体でお経を読んだのがまずかったみたいです。梵天・帝釈はしっかりしているので、和泉式部といいことしたあとの涅槃的なお経なんか聴いていられないのです。言い忘れましたが、この爺、「五条西洞院」の辺りの「道祖神」であった。怪しい。おそらく、ロケットみたいな形をしたあの方の可能性がある。

されば、はかなくさは読みたてまつるとも、清くて読みたてまつるべきことなり。「念仏・読経、四威儀をやぶることなかれ」と恵心の御坊もいましめ給ふにこそ。

やはりこう言うしかないのである。ベッドでお経するとロケットから感謝されるなど、教訓にも何もならない。しかし、梵天・帝釈もあれである。絶対、隠れて聴いているとみた。「今夜はやはり色っぽい音ですな、なはは」とか言いながら。

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