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「GO」とは、金城一紀の小説で、映画にもなった(2001)が、
「GTO」は、もと暴走族のにいちゃんが高校の先生?になってなんとやらという、いつもの、勉強のできない方々の夢を描いた作品で、原作ではたしか主人公の童貞設定までくっついており、勉強もできずコミュ力もない方の夢もかなえようという作品であった。
ちなみに、わたくしはこのG★Oも観ていない。さっきウィキペディアで調べて知ったかしているのである。しかし、この作品にでていた反町某とヒロインの松嶋某がリアルに結婚してしまったのは知っている。
世の哀れな勉強=コミュ力不足の方々を尻目に、イケメンと美女はそんな感じで幸せになっていくのであった。
という訳で、「GO」は全く異なる作品であり、研究者にも一種のはやりの分野に適合する作品として論じられることもあるが、作品自体は結構面白い。映画も思っていたよりも面白かった。デビュー当時の窪塚洋介というのは怪しいアウラの塊のような感じで、「池袋ウエストなんとか」や「凶器の桜」とかが面白かったのは彼のおかげである。最近の「沈黙」も彼がいたから傑作になっているようなものである。
いま「GO」をみると、0年代にちょっと容易に乗り越えた問題が最近になって回帰してしまった感がある。主人公のコリアン・ジャパニーズの少年は最初はただひたすら暴れている。映画は実は、この前半が面白い。山本太郎や新井浩文と一緒に警察に追いかけられるシーンとかがとてもいい。「パッチギ!」をポップにした趣だ。しかし、朝鮮学校から日本の高校に入った主人公が、シェイクスピアの恋愛小説なんかを読み、――ちょっとお金持ちの「日本人?」柴咲コウと恋愛関係に陥り、自分の国籍や自分とは何かみたいな問いのなかに置かれ始めると急に時間がよどみ始める。最後は、「いや、俺は俺であることすら捨ててやる!クエスチョンだ!ハテナマークだよ!」と叫ぶ主人公が描かれて、柴咲コウも差別を乗り越える。しかし、この物語を経験する観客は――おそらく、潜在的に、前半への回帰を望んでいる。なぜなら、解放と恋愛の甘さはあるが、ある種の強さがそこには感じられないからである。
似たようなことは、「池袋ウエストなんとか」を観たときにも思ったことだ。おそらく、この種の0年代の弱さが今に至るごたごたを生んでいる。思想の強度などと、容易なことを口走るべきではなかった。我々は、常にもっと本質的な弱さに復讐される。