★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

法師、転生

2018-08-25 18:51:52 | 文学


「不浄の身で説法する法師、平茸に生れ変はるといふ事のあるものを」と仲胤僧都は言った。ある村で平茸が異常発生して、それを喜んで食っていたのだが、ある夜、村人が集団で同じ夢を見た。この時のコメントがそれであった。

「いかなる人ぞ」と問ふに、「この法師ばらは、長い年月宮仕ひよくして候ひつるが、この里に縁尽きて今はよそへまかり候ひなんずる事の、かつは名残惜しくも候ふ。また事の仔細を申さではと思ひて、この由を申すなり」と

こう言って、僧達は消えてしまった。事の仔細を結局ちゃんと言ってねえじゃねえか、と思うが、その僧都たちもよく分かっていなかったのではなかろうか。世の摂理は測りがたし。仲胤僧都も確かにそうだと言っておらん。

確かに、平茸の群生している様は、なにか人間の姿を彷彿とさせる。だから平茸を人間と転生したものと考える発想が特別珍しいと思えないのである。最後に、仲胤僧都の「されば、もともと平茸などは食はざらんに、事欠くまじきものとぞ。」との言は、毒茸と区別がつかないから気をつけろという忠告とも解されようが――、そもそも平茸が元人間であったとしたら、地獄の鬼の役割を食べる人間がすることになり、なんとなく自分が怖いということになるであろう。仲胤僧都も一回はなにかよからぬ事をしているに違いないから、「平茸になった時に食われるのやだなあ」と思ったのかもしれない。

何かへんなキノコを食べて集団的な妄想に駆られたという解釈もあり得るであろう。八十年代のアニメなら確実にそうなる。

しかし、わたくしは、この大衆時代に鑑み、こう解したい。

法師達は平茸なんかではなく、本当にこの村で集団合宿でもやっていたに違いない。だから「よそへまかり候ひなんずる事」と言っているのである。村人が村祭で酔っ払って寝ているところに、彼らが「どうもお世話になりました」と挨拶に来たのだ。彼らが同じような夢を見たのはそういうことである。平茸が多く生えたのは、数年そういう気候だったに過ぎない。相談に乗った仲胤僧都は、農民達の愚昧ぶりにあきれたが、彼らを馬鹿扱いにしてはあとが怖いので、適当な理屈をでっち上げたのである。で、自分で言ってて不安になったので、「平茸はあんまり食べない方が……」とお茶を濁してしまったのであった。仲胤僧都、さすが言っていることが絶妙に意味不明だ、ということで、宇治拾遺の作者もほくそ笑みながら第二話に収録……