「人妻、死して後に、本の形に成りて旧夫に會ひし語」は、『今昔物語集』の巻二七第廿四である。わたくしなんかが、離婚に至る夫婦をまだよく想像できないのは、必ずや相手が祟ってくるような気がするからである。大学の頃ある小説まがいを書いたが、――それが、この今昔の話に似ていた。わたくしの感性は、私が生まれ育った昭和時代からはかけ離れている。そしてそれは今時ではなく、今昔物語の頃のセンスに近いことが判明したのだ、あーこりゃこりゃ
京都在住のある貧乏侍は、友人が出世したので彼のもとに行くことにした。
かくて京にありつく方も無くて有るよりは、我が任國に將て行きて、聊かの事をも顧みむ。年來もいと惜しと思ひつれども、我れも叶はぬ身にて過ぐしつるに、かくて任國に下れば、具せむと思ふはいかに
某豊太郎もそうだが、こういうときに半端なインテリは「ハイ」と言ってしまう。彼もそうであった。で、ついでに今まで親しんだ女を捨てて羽振りのいい女に乗り換えたのである。しかし、遠国で思うのは捨ててきた女のことばかり。ついに帰京した彼が女の家を訪ねると、荒れ果てた屋敷に女が待っていた。そして楽しくお話などしたあと、一緒に寝た。朝になった。
男、打驚きて見れば、掻き抱きて寢たる人は、枯々として骨と皮とばかりなる死人なりけり。此はいかにと思ひて、あさましく怖しき事云はむ方無かりければ、衣を掻き抱きて起き走りて、下に踊り下りて、若し僻目かと見れども、實に死人なり。
しかし、この話のクライマックスはここではない。近所の人に聴いてみると、
「其の人は、年來の男の去りて遠國に下りにしかば、其れを思ひ入りて歎きし程に、病付きて有りしを、あつかふ人も無くて、此の夏失せにしを、取りて棄つる人も無ければ、未ださて有るを、恐ぢて寄る人も無くて、家は徒らにて侍るなり」と云ふを聞くに、いよいよ怖しき事限り無し。
まさに、恐怖は、死体にあったのではなく、彼が未練がある女を捨てたことの帰趨そのものにあった。「取りて棄つる人も無ければ、未ださて有る」ことが、彼が女を捨てたことに対する意識そのままに重なっているのであり……
これに比べると、某豊太郎なんか、相手を偏執狂扱いにしたあげく、自分の頭に友人への恨みがあってなぞと、のんきなことを言うておる。こういうセンスであるからエリスをほっぽってきてしまったのだ。わたくしに比べて鷗外はかなりの近代人であったのであろう。