★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「あな恐ろし」の恐怖

2018-08-30 23:25:34 | 文学


「金峰山薄打の事」というのは、おそろしい話である。吉野の金峰山に薄打職人(金属加工業者)がお参りに行ったところ、金が露出しているところを見つけてつい一部を持って帰ってしまった。ここの金をくすねると、地震雷大雨がくると言われているのに全然大丈夫であった。喜んだ彼はつい大量に金箔にしてしまうのであった。

ここまで読んできて、もう怪しい雰囲気がすごい。だいたい、金峰山の金をとったぐらいで天変地異が起こるはずがない。阪神淡路大震災とオウム事件が村山内閣のせいでないのと同じである。

で、検非違使に「こんなに金箔がありますよ」と報告してしまう。すると、彼の持っていたすべての金箔には「金の御岳金御岳」と書かれているのであった。むろん、男にそんな文字を書いた覚えはない。なんじゃこりゃあ、というわけで、彼は刑場で拷問される。

検非違使ども河原に行いて寄柱掘り立てて身を働かさぬやうにはりつけて七十度の栲問をへければ背中は紅の練単衣を水に濡して著せたるやうにみさみさとなりてありけるを重ねて獄に入りたりければ僅に十日ばかりありて死にけり

金は元に戻しました。で、「それよりして人怖ぢていよいよ件の金取らんと思ふ人なし、あな恐ろし」というのが結論ですが、いったいなにが恐ろしいのでしょう。どうみても、上の拷問のシーンが一番すごいではありませんか。藏王権現の祟りはおそろしや、というのが素直な人民の解釈でしょうが、どうみてもそんな権現など空想な訳でございまして、この権現をつかって金の私的所有を暴力機関が独占しようとしているとしか思えません。「金の御岳」を書いたのは誰だろう?誰か人間が書いたに決まってるでしょうが。たぶん、この薄打職人ははじめから誰かにつけられていたのではないだろうか。

たとえば、場へ引かれて行く、歩みの遅々として進まない牛を見た時、或は多年酷使に堪え、もはや老齢役に立たなくなった、脾骨の見えるような馬をするために、連れて行くのを往来などで遊んでいて見た時、飼主の無情より捨てられて、宿無しとなった毛の汚れた犬が、犬殺しに捕えられた時、子供等が、これ等の冷血漢に注ぐ憎悪の瞳と、憤激の罵声こそ、人間の閃きでなくてなんであろう。
 これらの憫むべき動物が、曾ていかなる場合にせよ、飼主を裏切ったことがあったであろうか。そして、彼等より正直で、忠実なものが、他にあったであろうか。その感情に表裏がなく、一たび恩を感ずれば、到底人間の及ばぬ忍耐と忠実とを示して来たのであります。そこには、ただ本能としてのみ看過されないものがある。これに比して人間は、ただ利害によって彼等を裏切ることをなんとも思っていない。それは、自己防衛する術を知らぬ、動物の報復について考えを要せぬからであります。それ故に、僅かに、神の与えた聡明と歯牙に頼るより他は、何等の武器をも有しない、すべての動物に対して、人間の横暴は極るのであります。
 斯の如きことを恥じざるに至らしめた、利益を中心とする文化から解放させなければならぬ。昔の人間は、常に天を怖れたものだ。万物の生命を愛してこそ、はじめて人間は偉大たるのであります。この意味に於て、動物文学は、美と平和を愛する詩人によって、また真理に謙遜なる科学者によって、永遠無言の謎を解き、その光輝を発し、人類をして、反省せしむるに足るのであります。


――小川未明「天を怖れよ」(昭15)


怖れる対象を間違うと、小川未明のように、戦争協力などしてしまうことになるのであった。たぶん大事なのは、恐れではなく認識であろう。