
今日はオープンキャンパス。高校生の頃のことを考えると、そんな勧誘にのってたまるかよという気持ちであった――と思い出そうとしたのだが、我々の頃はまだこんなイベントはなかったので思いようがなかった。いや、やってたところもあったのかもしれない。
われわれの社会は、本当は高校生たちの主体性が発揮されることを期待しているかどうか、かなり怪しい。親などは、根本的に子どもの主体性の発動を恐怖しているといってよいだろう。というか、高校生本人達も恐れているのだ。
しかしまあ、実際、その主体性みたいなものをモチベーションとかなんとか「力」みたいな目に見えないものとして考えているからいけないので、目標なんて勉強しているうちにあとから出てきてしまうものではなかろうか。国語の勉強の仕方で、気をつけなければならないのは、こちらに解釈の主体があるという勘違いである。我々が読んでいるのではない。主体は文章にあり受信装置がこちらにあるかないかなのである。それは数学や英語と同じで、ある程度は反復練習によってしか生成されないのではないかと思う。そして勉強に限らずであるが、楽しさとは、その反復の快楽である。
批判的能力とやらも、その受信装置がまともであるときに機能し始める。主体と客体をひっくり返す発想ばっかりしているから……
この前、授業でも言ったけど、読書自体に対する考えかたも、一般的にだいたいひっくり返ってしまっている。言うまでもなく、我々が本を選ぶのではなく、本が我々を選ぶのだ。選ばれるまで読み続けるのが一番早い。
考えてみると、大学入試も大学の方に選抜の主体があるのであった。当たり前だが、いろいろな意味でこれは重大なことである。ペーパー試験はテキスト(本)の行為だが、面接や今話題の点数いじくりは人間の行為である。ちょっとわかりにくいかもしれないが、ここんとこが重要ではなかろうか……
サマータイム(笑)
服部徹也氏と北川扶生子氏の論文を読む。北川氏の論文に書いてあったのだが、確かに女性の移動と性的堕落に結びつくという見方がかつて見られた気がしないではない。ただ、男の場合もそうかもしれない……