太宰の「御伽草子」の「瘤取り」という話は、昔は何が面白いのかよくわからず、防空壕のなかで子供用の絵本を片手に語り手が語り出すところから、「鬼畜米英批判」みたいな話であろうと思っていたが、最近は、最後にある「性格の悲喜劇といふものです。人間生活の底には、いつも、この問題が流れてゐます。」とかいうせりふがなんとなくリアリティがあるように思われてきた。
陽気な阿波踊りには拍手喝采したくせに、通盛を唸ったじいさんには冷たかった鬼さん達は、いまのパーティ大好きのある種の人々と大きな違いはないひとたちであった。酷いのは、「こぶをとってくれよ」と追いすがる爺さんに「なんだ、さうか、あれは、こなひだの爺さんからあづかつてゐる大事の品だが、しかし、お前さんがそんなに欲しいならやつてもいい。」と、聞き取り能力の低さをいかんなく発揮してしまったことであった。しかしまあ、身に覚えのないことではない。いやな相手の言うことをわれわれはほとんど聞けていない。
世の論争などをみても、そういうことを感じる。
とはいえ、これは本当に「性格の悲喜劇」なのであろうか。わたくしは違うと思うのである。太宰は、なんで屡々こういう結末をつけてしまうのであろう。まったくいい性格をしているという他はない。瘤付きの比喩なんかを重ねるから……。
これに比べて「宇治拾遺物語」の
「ものうらやみは、すさまじき事なりとか」
というのは、汎用性があってよさそうだ。かかる教訓を一生かかって回避しているような人間が増えて来ている気がするが、そんなのはむかしから多かったのであろう。ただ、気の利いた子供なら、
「おれに瘤はねえよ」
と言って終わりである。そりゃお前にはねえだろう。