★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「然也けり」と心得る事無くて

2018-08-22 23:47:38 | 文学


彼の家に、男、二三年副て有けるに、「然也けり」と心得る事無くて止にけり。亦、盗しける間も、来り会ふ者共、誰と云ふ事をも努知らで止にけり。其れに、只一度ぞ行会たりける所に、差去て立てる者の、異者共の打畏たりけるを、火の焔影に見ければ、男の色とも無く極く白く厳かりけるが、「頬つき・面様、我が妻に似たるかな」と見けるのみぞ、「然にや有らむ」と思えける。其れも慥に知らねば、不審くて止にけり。

これは、芥川龍之介の「偸盗」に使われた「不被知人女盗人語」(『今昔物語集』29-3)の最後の場面であり、物語を読み進めてきた読者を驚かせる。ここで、男や女の人生が一気に見えるようになるのである。物語は、確かじゃない、そうかもしれない、と言っているにも関わらず。

この場面がなければ、女に性的に調教されて盗賊をやってしまったマッチョな男の話、あるいは、ファム・ファタールの物語ともマゾヒズムの物語ともどうとでも呼べるものなのだが、それを突き放してしまう。

しかし、わたしは、どうもこの話はいい話過ぎるのではないかと思う。

稀見理都氏の『エロ漫画表現史』が有害図書指定を受けたというので問題になっていた。わたくしも瞥見してみたのだが、劣情というより確かに「有害」という範疇を呼び寄せる感じなのだ。有害図書指定した側が愚劣なのはもちろんであるが、問題はその先であろう。七十年代のイケナイ成人漫画の頃から既にそうだったように、エロ漫画というのは、もう魑魅魍魎への変身の世界であって、我々がそれを忌避するのは、単にタブーだからなのではない。わたくしが西洋の文化をあまり舐めない方がよいと思うのは、例えば、イザベル・アジャーニの演技で有名な映画「ポゼッション」で、タコと美女の絡まり合いみたいなものでも何とか「芸術」のテンションのなかにはめ込んでしまう観念的体力がものすごいとおもうからである。