★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

鱗は落ち、農民は敗れる

2018-08-21 23:21:17 | 思想


P・G・プライスはカナダ・メソジスト教会の宣教師であるが、彼の『共産主義と基督教』というのが昭和初期に翻訳されていて、わたくしも持っている。マルクスとキリストが似ているというので、ではパウロに当たるのはレーニンだという観点で書かれた本である。(ちなみに訳者は、同志社で社会福祉論を説いたクリスチャン・竹中勝男である。彼は大学を辞めてからは社会党の議員になった。)

十月革命の時、「兄の附き纏える霊が、レーニンの心魂を摑んでゐた」らしいのである。少年ジャンプかと思うのは、日本の少年達だけで、神の国を実現しようとする人間達にとってはよくある風景に違いないのである。

パウロの書いたロマ書にルターがつけた文章を読んだ人がメソジスト運動の基になったのは有名な話である。

パウロはキリスト教を迫害していたのであるが、天からキリストの「なんでそんなことするの?」という呼びかけを聞き、しかも目が見えなくなった。アナニアさんという人が祈ってあげると眼から鱗が落ちて回心した。以来、キリスト教弾圧レベルのことをやっているわけでもなく、単に無知だったのに、「先生の話を聞いて眼から鱗です」とか、授業アンケートに極東の学生が書くに至る。

わたくしが権威ではなくとも、鱗は落ちる。

本当は、キリスト教内部でも、神の権威を保つのは容易ではなかった。ルターはパウロのロマ書を引き、プライスはレーニンまで引いてきて暴力的な態度をちらつかせるのである。

それにしても、我が国はこういう抵抗運動の神話的つながりみたいなものがあまりないようだ。われわれは、現在から何かを一からひねりださなければならず、いざとなれば、「この身が砕けようともなんとやら」みたいな感じで自殺行為に走る。英霊もそうだし、農民一揆の犠牲者たちも、なんか記念碑が建ってるだけで、彼らがどう戦ったのかわからなくなっている。キリスト教がそうだったように、教祖が死に弾圧を生き延びたあとの言葉の組織が問題なのであろう。とにかく、我が国では、死者を代弁する輩が揃いも揃ってクズばかりなのである。

甲子園大会をみてると、また「農民が強敵に玉砕かくごで向かっていき美事粉砕された」神話が上演されていた。そこには我々の歴史の長い諦めの時間があるようで悲しくなってくる。決勝戦に勝ち上がった「農業高校」への我々のまなざしにはちょっと根深いものを感じた。