★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

名もなき

2019-07-05 23:34:00 | 文学


ゼミ生と話をしていて、是非「名もなき夜のために」を再読しなければならないと思った。

家に帰って読んでみたら、眼前に高校生の頃の空気が広がった。

さすがにそのころとは違った読みがでてきたように思うので、こんど論じてみようと思う。

男一匹、安っぽく狂うな

2019-07-03 22:33:01 | 文学


今かく、 すこし人数にもなりはべるにつけて、 はかばかしからぬ者どもの、かたがたにつけてさまよひはべるを、かたくなしく、見苦しと見はべるにつけても


昔の頭中将もいまは立派になってしまい、その結果「あなたの子です」と名乗り出てくる者も多かったらしい。あまりにでてくるので、頭中将はなんだこりゃと見苦しく思うのであった。――しかしながら、その見苦しいの子どもの顔は、お前の顔にそっくりなんだよボケッ

またさるさまにて、数々に連ねては、あはれに思うたまへらるる

確かに、気をつけ前へならえっ、と並んでみると子どももなかなかかわいく見えることがあるようだ。桃太郎が「海の神兵」で動物たちに命令を下しているときの気持ちの如くか。しかしこのような状況でも気になるのは夕顔と自分の子どものことが、

まづなむ思ひたまへ出でらるる


だそうである。嘘をつけ。いま、源氏に玉鬘は夕顔と君の娘だと言われたからいってみただけであろうが……。

星一徹のいわゆる「男一匹、安っぽく狂うな」という感じである。

とのたまふついでに、かのいにしへの雨夜の物語に、いろいろなりし御睦言の定めを思し出でて、泣きみ笑ひみ、皆うち乱れたまひぬ。

語り手はよく分かっていて、直ぐさま品定めのことを懐かしがる頭中将に対して「とのたまふついでに」とアイロニカルである。

とまれ、最近は確かに安っぽく狂う奴が多すぎる。安っぽいもんだから、周りも傷ついたり寄り添ったり気持ちを込めたり出来るわけである。

「失敬なことを言うな。うちにいる時は裸だけど、外に出る時にゃちゃんと三角の紙の着物を着て行くんだ。第一貴様の名前が生意気だ。キャラメルなんて高慢チキな面をしやがって、日本にいるのならもっと日本らしい名前をつけろ」
「こん畜生、横着な事を言う。キャラメルが悪けりゃあカステイラは西班牙の言葉だぞ。シュークリームでもワッフルでも良いが、菓子にはみんな西洋の名前が付いているんだ。あめだのせんべいなぞ言うのはみんな安っぽい美味くないお菓子ばかりだ」

――夢野久作「キャラメルと飴玉」


考えてみると、みんなが安っぽくなったのは、自らの値段のことを横目でちらちら気にしているからではないだろうか。成金がする品定めほど嫌らしいものはない。源氏も頭中将もお金持ちだったのがイケナイ。

折にあはぬよそへどもなれど

2019-07-02 23:03:13 | 文学


昨日見し御けはひには、け劣りたれど、見るに笑まるるさまは、立ちも並びぬべく見ゆる。八重山吹の咲き乱れたる盛りに、露のかかれる夕映えぞ、ふと思ひ出でらるる。

紫の上には劣るけれども、とあいかわらず思ってはみるのだが、――みているとこちらが微笑んでしまうということはやはり……やっぱり同等に美しい。――こんな感情の動きはまるで小学校6年生か中学校1年生みたいである。少年が女性の品定めをすることには意味がある。品定めの理由を考えることによって、少年たちは世の中をどう判断するかをこそ学んで行くのであった。夕霧がだしてきた表現は、八重山吹の花の咲き乱れたところに露のかかった夕映え、というものであった――なんだそりゃ、なんか性の目覚めっぽいぞと思いきや、

折にあはぬよそへどもなれど、なほ、うちおぼゆるやうよ。


と遠慮がちに語り手がフォローしてくれる。

今日、長寿大学で「初恋」の「花ある君と思いけり」の部分について喋ったが、――わたくしは、藤村が急速に君に接近しているのを遺憾と思うものである。下手な比喩でもいいからもっと迷って欲しいんだ。しかし、藤村は接近しすぎてもうなんだか「思う」ことしかできないのであった。

トランプもすぐに接近するタイプだから、当然信用できない。今回のトランプから小泉純一郎の電撃訪問みたいなものを想像した人もいるであろうが、手が早いことに、我が国の人民は無条件にびっくりする習性がある。劇場なんか常に閉まっているのである。古風な状況分析かもしれないが、アメリカというのは戦争をやって儲けたがっていると考えるべきで、やはり本当の狙いは北朝鮮じゃなくイランじゃなかろうか。むしろ解く問題の分散を防ぐ必要もあって北朝鮮を足がかりにしているのではなかろうか。昨日、マルクスの「東方問題」を瞥見していて思ったんだが、それこそあそこらへんは、劇場ではなく「問題」に感じられるのである。故に、何が起こっても、我々の感情に推移というものが起こらないような気がする。対して、朝鮮や日本は「問題」として処理するにはかなりややこしい記憶が残りすぎている。それは無論、文化のおかげで――。

花は限りこそあれ、そそけたるしべなどもまじるかし、人の御容貌のよきは、たとへむ方なきものなりけり。

語り手はいまいち夕霧の感情に接近できない。少年が美しい人を見たときに「そそけたるしべなどもまじるかし」なんて思うであろうか。「たとへむ方なきものなりけり」なんてことは言ってはいけません。最後まで喩え続ける胆力が必要であります。源氏はモテすぎて、唯生きているだけで比較分析の機会に恵まれたが……

蘇峰

2019-07-01 23:32:52 | 思想


今日は古本屋で本を買えたので気分がよかった。徳富蘇峰の『精神の復興』とザーリスの『ギリシヤ芸術』の翻訳。

徳富蘇峰は、さまざまな時にちょこちょこと読むんだが、なんだか記憶に残らず、昨年ゼミ生の卒論の都合で、巨大ベストセラー『大正の青年と帝国の前途』を読んでみたのであるが、なんという形式論理――という感じで、吉野作造みたいにこれを「老翁の繰言」とは思わないが、なんというか、ある種の理性的働きが強すぎるという感じがする。

例えば、明治30年代の文章に「『ぽち』を悼む」というのがあり、「犬殺し」?に長男の愛犬が殺されたエピソードなのであるが、たとえば二葉亭の「平凡」の同じようなエピソードに比べて非常に道徳的というか宗教的なのである。じぶんも悲しくなったんで、マシュー・アーノルドの詩で自分を慰めたみたいなことが書いてあり、上の本では省略されていたが、訳文まで長々と載せた。アーノルドのその詩がどういうものかわたくしは知らないが、――その前に、自分の息子をよくよく観察すべきなのだ。本当に彼は悲しんでいたであろうか?どのように悲しんでいたであろうか。犬の視点で書かれた芥川龍之介の「白」までいかなくても、精神の内実に分け入って行くべきだと思うのだが、蘇峰はあまりそういうことはしない。

とはいえ、蘇峰は別に文学者でないので――という風に簡単に片付かないところが面白い。鷗外や蘆花にとって蘇峰は半身なのであり、中野正剛なんかにとっても半身である。こういう半身を失った戦後の文学と政治は、自分の半身を吉本風の「大衆」みたいに考える他はない。これはだいたいの場合観念なので、考えている本人も不安でしょうがない。90年代の左翼がそれをやめて顔の見える隣のマイノリティに標準を合わせてしまったのも別にポストモダンのせいじゃない。小沢一郎なんかは結構頑張ったのであろうが、彼みたいな政治家が頑張れるためには、かえって、例えば読売新聞などに蘇峰風の論客のナショナリスティックな論が硬直してつっかえ棒になっていなければならない。が、この新聞を含めてマスコミというのがふにゃふにゃしていて、これまた半身を求めているような状態なのだ。新聞が大衆を半身として自らの論を立てなくなったことにつきるわけだが、結局、こういう場合、果ては確かなのが法律とかになってしまうわけである。

というかんじで蘇峰を偶像化して考えてみてもしょうがないのであろうが――。似たようなことは、教育の世界や学術の世界でもある。個人主義を批判する輩は、まったくこの辺の事情が分かっていないのではなかろうか。