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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

無常の来る事

2021-06-16 23:14:12 | 文学


大事を思ひたたん人は、去りがたく、心にかからん事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。「しばし、この事はてて」、「同じくはかの事沙汰しおきて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらん、行末難なくしたためまうけて」、「年来もあればこそあれ、その事待たん、ほどあらじ。もの騒がしからぬやうに」など思はんには、えさらぬ事のみいとどかさなりて、事の尽くるかぎりもなく、思ひ立つ日もあるべからず。おほやう、人を見るに、少し心あるきはは、皆このあらましにてぞ一期は過ぐめる。近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とや言ふ。身を助けんとすれば、恥をも 顧みず、財をも捨てて遁れ去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の来る事は、水火の攻むるよりも速かに、遁れがたきものを、その時、老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨てがたしとて捨てざらんや。


こんまり氏の「ときめかなかったら即捨てよ」という主旨の本があるらしい。わたくしはまだ読んでない。(いや、読んだかもしれない)寺山修司のように「書を捨てよ街へ出よう」の現代バージョンと言ってよい。しかし、この断捨離というやつでわたくしが最初に想起したのは、上記の徒然草の第五十九で、求道者はさっさといろいろ捨てましょう、死はいつ来るか分からないぞ、早くしなきゃ、みたいな文章である。

仄聞したところによると、こんまり氏は本やコピーも同様だ、と言っているらしいんだが、学者はこの論旨に勿論反発する人が多いらしい。徒然草を読むと、書物に埋もれて研究計画ばかり考えているのは、我々が求道者として思いきっていないからかもしれないとも思うのであった。しかし、われわれはいろいろ捨てて書庫に籠もったのだ。

しかし、果たして、徒然草の作者は、その断固決断してどうなったんであろうか?結構、捨てるべき世間と離れないエッセイを書いたのではないだろうか。

 幼い頃、「無常の風が吹いて来ると人が死ぬ」と母は云つた。それから私は風が吹く度に無常の風ではないかと恐れ出した。私の家からは葬式が長い間出なかつた。それに、近頃になつて無常の風が私の家の中を吹き始めた。先づ、父が吹かれて死んだ。すると、母が死んだ。私は字が読める頃になると「無常」の風とは「無情」の風にちがひないと思ひ出した。所が「無情」は「無常」だと分ると、無常とは梵語で輪廻の意味だと云ふことも知り始めた。すればいづれ仏教の迷信的な説話にすぎないと高を括つて納まり出したのもその頃だ。その平安な期間が十年も続いて来た。もう私は無常の風が梵語であらうがなからうが全く恐くはなくなつてゐた。

――横光利一「無常の風」


我々は横光利一よりあとの人間だ。内面に無常の風を吹かしている後の人間である。これ以前に帰っても仕方がない。むろん、「無常」自体が、「死」を軽量化するトリックだった側面があるから、内面に場所をうつしても耐えられたのだ。いまは起こっているのは、内面化でも死の軽視でもない。

自我空間の誕生と死

2021-06-15 23:53:45 | 文学


久しく隔たりて会ひたる人の、わが方にありつること、数々に残りなく語り続くるこそ、 あひなけれ。隔てなく慣れぬる人も、ほど経て見るは、はづかしからぬかは。 つぎさまの人は、あからさまに立ち出でても、今日ありつることとて、息もつぎあへず語り興ずるぞかし。よき人の物語するは、人あまたあれど、一人に向きて言ふを、 おのづから人も聞くにこそあれ。よからぬ人は、たれともなく、あまたの中にうち出でて、 見ることのやうに語りなせば、みな同じく笑ひののしる、いとらうがはし。をかしきことを言ひてもいたく興ぜぬと、興なきことを言ひてもよく笑ふにぞ、品のほど計られぬべき。人のみざまのよしあし、才ある人はそのことなど定め合へるに、おのが身をひきかけて言ひ出でたる、いとわびし。

そりゃそうなのだが、――こんな風に感じるということは、われわれの社交上の礼儀というより知性の程度に問題があるからだ。わたくしは、兼好法師の言うようにそれが「品」の問題だとは思わないのである。

自己肯定感の議論はTVでも盛んに喧伝されるようになったが、いつもただ自分を肯定しようとすると、何も無いから自己を否定せざるを得なくなるパラドックスを処理しきれずに、もっと寄り添え、強く肯定せよ、という悪循環にはまり込む。自己肯定とは、自分のいまいちなところ、知らないこと、失敗したこと、などを勇気を持って並べはてその自己の巨大な滑稽な罪深さを自覚、ではなく、そのまま放置することによってその巨大に膨らんだ一種の自我空間によって成される気がするのである。上の品のない輩も、どうせ、そこまで巨大になる勇気がない自分を肯定しようとして「おのが身にひきかけ」ることしかできなくなっている。だから、しゃべり続けるしかなくなるのである。

今日は『木曽教育百年史』で、木曽に終戦直後に講演にやってきた大学人や文学者などを調べていたが、敗戦後の木曽でも、「日本の再建の道は民族の教養を高めることによってのみ開けてくる。」(木曽教育会長 川口五男人)といわれていて、まずは「学者を尊重」せよということで、いろんな学者や文学者を呼んできて講演をさせていた。長野県はよく知られているように、安曇野出身の哲学者務臺理作のがんばりで、京都学派との繋がりがあったが、木曽教育会の講演会によく来てたのは、ヘーゲル研究の金子武蔵や、亀井勝一郎である。敗戦直後、たしか山梨にいた矢内原忠雄は、福島国民学校(福島小学校・わたくしや父が出た学校である)で「日本精神への反省」と題して講演したが、これが彼の戦後の第一声だったらしい。彼が逐われていた東大に復職する前の出来事である。『百年誌』によると、矢内原はこう言っていた。

「谷は夕暮れが早くて夜明けが遅い所でありますが、太平洋戦争後の新しい日本の黎明が、少なくとも私に関する限りは長野県の木曽から始まる、どうかそういう事であってほしい。諸君の魂の中に新しい日本の覚醒と黎明が始まって頂きたい。」


日本がまるで木曽のような所だというのは、「夜明け前」が示すとおりであって、矢内原にとっては格好の出発地だったのである。福島小学校の背後に迫っている山をみて矢内原はどういう気持ちだったのであろう。敗戦後の日本は、破壊でぺんぺん草がはえない空虚だったのではない。自分の行為が否定性にすべて反転した、巨大な自我空間状態であったのである。だから、学者を尊重せよ、教養を高めよ、という自己肯定的出発が可能なだったのである。

矢内原のキリスト教は、教育会のなかの「女教員会」にも影響を与えており、男女が平等の教職員組合の成立によって、その会が解散するときに抵抗があった話も面白かった。戦後の出発は、それが「肯定」的な過程として進行するにつれて、もともとあった罪障感や否定性の独自性を失っていった。

家の作りやう

2021-06-14 22:43:44 | 文学


家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり。深き水は、涼しげなし。浅くて流れたる、遥かに涼し。細かなる物を見るに、遣戸は、蔀の間よりも明し。天井の高きは、冬寒く、燈暗し。造作は、用なき所を作りたる、見るも面白く、万の用にも立ちてよしとぞ、人の定め合ひ侍りし

京都の冬も結構寒いと思うんだが、まあ火に当たっていればなんとかなるのに対して、夏はいまみたいな科学の力が全くないので、大変だったろうと思うのである。この前テレビやってたが、エアコンのない状態では、やっぱり人間は30そこそこで死に向かうように出来ているみたいである。

深い水は涼感がないというのも、まあそうかもしれない。

ただし、よくわからんが、兼好法師の言っていることは、もう暇になった人間の言う事みたいな感じがある。方丈記の人の方がまだやる気があった。彼の方丈は、コンパクト書斎みたいなものだったからだ。

 その後、約十五、六年の間、私は書斎などということを全部忘却してでもいるようにして暮らしているのです。つまり、生活の土台が安定していないからで、出来るならどんなところにいても自分の思うような仕事が出来ればいいなぞとただ不精な考え方をしているのです。
 由来、日本の社会様式や家の構造は、人間になるべく仕事をさせないように故意に出来ているといっても過言ではありません。殊に少しく実の入った精神的な仕事をしようなどと柄にもない心掛けを起こしたら、まったくいても立ってもいられないようになるに相違ありません。


――辻潤「書斎」


10年以上前、ゼミ生と、梅崎春生は家族の騒音のなかで原稿を書いていたらしいと話し合ったが――、彼は蜆の呟きまで聞こえてしまう人であって、逆に、人間のだす騒音など、戦地の騒音みたいなものだったのかもしれない。あるいは、酔っていて気にならなかったのであろうか。対して、上の文章の結論は自分は方丈時代の人なんでと言って、否定しているが、――辻潤みたいなひとはあんがい書斎を持ちたがっているのではなかろうか。彼の文章を読んでいると確かにそんな気がする。彼の訳したシュティルナーは無の上に自分を置くけれども、あれは書斎を打ち立てるようなものである。

仁和寺・異見

2021-06-13 23:46:12 | 文学


仁和寺にある法師、年寄るまで、石淸水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩よりまうでけり。極樂寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果たし侍りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」と言ひける。すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。

むかしは、なんとも思わなかったが、いまはこういうことを言って悦に入っておる兼好法師はけしからんと思う。こういう有り難い間違いをしでかす法師がいるから、当時の寺と有名神社の関係性がどのようなものであるのか、われわれが勝手な推測をすることが出来るというものである。我々は屡々、過去の人間を明晰な人間達にみなしたがるが、常識的なことでも知らないことは知らない人間たちに過ぎないのであった。それに、別に八幡にいかなくてはならぬということはない。極楽寺・高良神社で十分ではないか。神仏習合しているくせに、その「集合」の全体に拘る癖が我々は抜けない。信仰は収集として表現されるのである。

わたくしの神社を訪ねるシリーズも、かかる観点に基づき、讃岐の名神大社「田村神社」に行っておらぬ。もう律令体制ではないしいいではないか。

八幡太郎の名はその後ますます高くなって、しまいには鳥けだものまでその名を聞いて恐れたといわれるほどになりました。
 ある時、天子さまの御所に毎晩不思議な魔物が現れて、その現れる時刻になると、天子さまは急にお熱が出て、おこりというはげしい病をお病みになりました。そこで、八幡太郎においいつけになって、御所の警固をさせることになりました。義家は仰せをうけると、すぐ鎧直垂に身を固めて、弓矢をもって御所のお庭のまん中に立って見張りをしていました。真夜中すぎになって、いつものとおり天子さまがおこりをお病みになる刻限になりました。義家はまっくらなお庭の上につっ立って、魔物の来ると思われる方角をきっとにらみつけながら、弓絃をぴん、ぴん、ぴんと三度まで鳴らしました。そして、
「八幡太郎義家。」
 と大きな声で名のりました。するとそれなりすっと魔物は消えて、天子さまの御病気はきれいになおってしまいました。


――楠山正雄「八幡太郎」


収集が出来ないばあいには、その言葉に力があることにして嘘をつき始めるのが我々である。その不可能性が証明されると、神社巡りやお寺巡りを始めて数で空白を埋めようとする。その空白の存在を認めざるを獲ないときには、それを「無常」とか言い換える。

人、木石にあらねば

2021-06-12 23:59:31 | 文学


五月五日、賀茂の競べ馬を見侍りしに、車の前に雑人立ち隔てて見えざりしかば、おのおの下りて、埒のきはに寄りたれど、殊に人多く立ち込みて、分け入りぬべきやうもなし。かかる折に、向ひなる楝の木に、法師の、登りて、木の股についゐて、物見るあり。取りつきながら、いたう睡りて、落ちぬべき時に目を醒ます事、度々なり。これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ者かな。かく危き枝の上にて、安き心ありて睡るらんよ」と言ふに、我が心にふと思ひしままに、「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「まことにさにこそ候ひけれ。尤も愚かに候ふ」と言ひて、皆、後を見返りて、「ここへ入らせ給へ」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき。かほどの理、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずることなきにあらず。

この体験談は兼好が十三歳の時だという説があるけれども、歳をとっていても少年でもあってもどっちでもよい気がする。「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」程度の認識で「そうだね」と言ってスペースをあけてくれた群衆の心の広さがすごすぎる。兼好は群衆で馬が見えずいらいらしておったのである。その心を見てとってくれたおじさん達?ありがとう。普通は、「お前も見に来てるひとりじゃねえか、確かに我等が生死の到来ただ今にもあやあらん、これでも食らえ」とぶん殴られるところだ。

二四三段でも仏はどうやって仏になったのだ?という質問をして大人を困らせる八歳の兼好法師が描かれているが、賢い八歳児ならこのぐらいやらかすし、――そして、この八歳児は徹底的に馬鹿なのである。なになぜ少年など腐るほどいるが、たいがいは答えを要求する秀才にはなるが、自分で謎を作り出し、ほんとうに謎を解こうとする人間にはほとんどならない。親の言うこととしては、人に頼るな、てめえで考えろ、でいいのである。

結局のところ、兼好法師がどのようなものにうたれたのかいまいちよくわからないのだが、「木石にあらねば、時にとりて、物に感ずることなきにあらず」といっているところが流石で、我々は物(木石)でないから「物に感ずる」のだという。なんだかよく分からんが、競馬を見に来た群衆は物の集合体であり、そのなかでこそ、なんだかその物的状況が予期せぬ感情を発生させるのである。

デモの効用というやつもそういうところがある。

さて、嫁はどんなのがいいかと聞かれて、その養子の答えるには、嫁をもらっても、私だとて木石ではなし、三十四十になってからふっと浮気をするかも知れない、いや、人間その方面の事はわからぬものです、その時、女房が亭主に気弱く負けていたら、この道楽はやめがたい、私はそんな時の用心に、気違いみたいなやきもち焼きの女房をもらって置きたい、亭主が浮気をしたら出刃庖丁でも振りまわすくらいの悋気の強い女房ならば、私の生涯も安全、この万屋の財産も万歳だろうと思います、という事だったので

――太宰治「破産」


ほんと太宰の文章はうるせえが、おなじ「木石には非ず」と言っていてもこんなに違う。太宰は自分の文章自体を群衆にしようとしているから無理もない。予期せぬ事は起こらないのである。

代筆の時代

2021-06-11 23:25:14 | 文学


手のわろき人の、はばからず、文書き散らすは、よし。見ぐるしとて、人に書かするは、うるさし。

いまはワープロの時代であるからして、我々はワープロに代筆させているわけでまさに「うるさ」き輩といってよい。

そういえば、今日、難波功士氏の『大二病』を授業で紹介したときに、中二病の定義を学生にきいたところ、自意識過剰的な反抗的俺様意識を侮蔑的・批評的に表現した言葉だと、わたくしがおもっていたそれを、――学生は、「必殺技を持ってるキャラクター」と答えたのである。次の時間、ゼミ生と話し合った結果、自虐が自己肯定的に属性となってひっくり返ったネット界(及びリアルな学校空間)の現象であろうか、という結論に至った。ゼミ生によると、ライトノベルの「中2病でも恋がしたい!」がきっかけかも知れないとのこと……

考えてみると、ネット右翼的な発言というのも、そもそもが遊戯的・自虐的な「正論」のニュアンスを伴っていたはずである。ネット界で、いまでは現実界でも猖獗をきわめる「自己承認」欲求でさえ、ネット界での仮想空間での行為であることが、2ちゃんねるの黎明期では自覚的であるのかもしれなかった。しかるに、最近ではツイッターのいいねボタンなどで、そのネタ的なものがベタにひっくり返ってしまったのかもしれん。

こういう現象も、確かに現象としてはありうると思うのであるが、そして、フェイスブックもツイッターも設計者が社会思想を知らないあんぽんたんであることをわたくしも思わないわけではないが、――だれも筆を使っていないというのがまずいのだ。下手な字の奴はそもそも中二病を貶すことも、右翼になることももちろん出来ないはずなのである。

昭和二十二年の十一月、大石田を立つて、帰京の途にのぼつた。その時以来、東京で満二年を経過したが、今年の九月、これ迄省みないでゐた荷を片附けて居ると、彼のケンリユウ小筆が、虫に食はれ、羊毛のところがすっかり無くなつて、まる坊主になつて出て来た。ナフタリンの気が無くなつた状態につけ込んで、虫の奴が攻勢に出たものと見える。空襲にも助かつたこの小筆が、一夜のうち(多分さうだらう)に一昆虫のために、坊主にされてしまつた。

――斎藤茂吉「筆」


戦後は虫どもの筆の破壊から始まった。

法師が覗きを

2021-06-10 23:50:06 | 文学


九月二十日のころ、ある人に誘はれたてまつりて、明くるまで月見ありく事侍りしに、思し出づる所ありて、案内せさせて、入り給ひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬ匂ひ、しめやかにうち薫りて、忍びたるけはひ、いとものあはれなり。よきほどにて出で給ひぬれど、なほ、事ざまの優におぼえて、物の隠れよりしばし見ゐたるに、妻戸をいま少し押し開けて、月見るけしきなり。やがてかけこもらましかば、口をしからまし。あとまで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうの事は、ただ、朝夕の心づかひによるべし。その人、ほどなく失せにけりと聞き侍りし。

徒然草のなかで結構人気の段だと思うけれども、この女を家の外から覗いているところがやはり兼好法師だなと思う。しかも、最後、女が死んだことを聞いたと言って諸々を無に帰してしまう。坂口安吾なら、おまえはなんでそのまま女を訪ねないんだ、と言うであろう。ツルゲーネフならもう少し逢い引き的なシーンにするだろうし、太宰なら、「二人の動物がいました」みたいなゲスな想像をしてしまう。――兼好法師はこういう連中とは違うのだ。しかし、ここで話が終わってしまうのがこの人なのである。

 なかば傾いた西の対の、破れかかった妻戸のかげに、その夕べも、女は昼間から空にほのかにかかっていた繊い月をぼんやり眺めているうちに、いつか暗にまぎれながら殆どあるかないかに臥せっていた。
 そのうちに女は不意といぶかしそうに身を起した。何処やらで自分の名が呼ばれたような気がした。女の心はすこしも驚かされなかった。それはこれまでも幾たびか空耳にきいた男の声だった。そうしてそのときもそれは自分の心の迷いだとおもった。が、それからしばらくその儘じっと身を起していると、こんどは空耳とは信ぜられないほどはっきりと同じ声がした。女は急に手足が竦むように覚えた。そうして女は殆どわれを忘れて、いそいで自分の小さな体を色の褪めた蘇芳の衣のなかに隠したのが漸っとのことだった。


――堀辰雄「曠野」


だからといってこういう展開はつまらないんだか面白いのかわからない。

シティボーイの帰趨

2021-06-09 23:53:35 | 文学


年月経ても、つゆ忘るるにはあらねど、去る者は日々に疎しといへることなれば、さはいへど、その際ばかりはおぼえぬにや、よしなごと言ひて、うちも笑ひぬ。骸は気疎き山の中に納めて、さるべき日ばかり詣でつつ見れば、ほどなく、卒都婆も苔むし、木の葉降り埋みて、夕べの嵐、夜の月のみぞ、言問ふよすがなりける。思ひ出でて偲ぶ人あらんほどこそあらめ、そもまたほどなく失せて、聞き伝ふるばかりの末々は、あはれとや思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらん人は、あはれと見るべきを、果ては、嵐にむせびし松も千年を待たで薪に砕かれ、古き墳はすかれて田となりぬ。その形だになくなりぬるぞ、悲しき。

お参りに来る人がいなくなり、夜の月しか訪れなくなる、しまいには古い墓が掘り返されて田んぼになってしまう――こんな状態を兼好法師が書き残していることは興味深いことだ。彼が見つめていたのは貴族たちの墓なのかも知れない。転変が多い世のことだから、親族が絶えてしまうことは珍しくなかっただろうが、案外、墓が長持ちしないことはどう考えたらよいのであろうか。わたくしの母方の方(農村)なんか結構昔からの墓があるようであるが、支配層のとっかえひっかえが少ない近代が、案外、先祖信仰を長引かしている可能性もある。あるいは、農民達の墓を含めたコミュニティの方が持続的であったのかもしれない。

戦後の中産階級の没落が最近よく言われていることであるが、戦時中にすでに派手な中産階級の没落が起こっていて、おそらく、明治以来続いていた一部の地主や旧家の没落もそこに含まれているのかもしれない。戦後の中産階級が、農村からの離脱運動の結果だとすると、ついに農村の家々自体も分解させられてしまったと言うとこであろうか。藤村が少しは知っていた旧家がどんなものか分からないが、資本主義下の明治以降のファミリーなんかいまとたいして変わらないに違いない。

戦後のサブカルチャーでよくでてくる、死んだ兄弟とか師匠とかが、最大の決戦時に霊として助けてくれる場面が示しているように、我々は個として強いときに何か死んだ霊を背負いたい文化を残している。最近はそれもない気がするのであるが、それが大げさに復活することもあるであろう。下の高村光太郎なんか、根本的にシティボーイだからこうなっていると言う他はない。

宣戦布告よりもさきに聞いたのは
ハワイ辺で戦があつたといふことだ。
つひに太平洋で戦ふのだ。
詔勅をきいて身ぶるひした。
この容易ならぬ瞬間に
私の頭脳はランビキにかけられ、
昨日は遠い昔となり、
遠い昔が今となった。
天皇あやふし。
ただこの一語が
私の一切を決定した。
子供の時のおぢいさんが、
父が母がそこに居た。
少年の日の家の雲霧が
部屋一ぱいに立ちこめた。
私の耳は祖先の声でみたされ、
陛下が、陛下がと、
あへぐ意識は眩いた。
身をすてるほか今はない。


光太郎は、終戦の詔勅の時も「一億の号泣」というのを書いている。朝日新聞の例の号泣記事もそうだが、わたくしは以前からこういう号泣みたいなのをハナから馬鹿にしていたが、彼らに寄り添って考えてみると、なにかこの号泣にはなにか男一匹やる他はないみたいなところが感じられなくはない。「身をすてるほか今はない」――捨てられなかったので、泣いてみたのかも知れないわけだ。先祖との循環のなかにいたからそういう一事をして死ぬみたいな意識が可能だったのかも知れないが、人間やはり、孤立した個人が幸福な労働生活を抽象的に送るなんて無理なのだと思わざるをえない。

存在論関係を読む

2021-06-08 23:53:35 | 思想
三木清、西田幾多郎、和辻哲郎とかを読む。



こんな読書をしたときは、田んぼに対しても

絶対的一者の自己否定的に個物的多として成立する我々の自己の、自己否定即肯定的に、自己転換の自在的立場をいうのである

とか西田の遺作が口をついて出てくることもないこともないような気がするのであった。

告別

2021-06-07 23:59:28 | 文学


人の亡きあとばかり悲しきはなし。中陰のほど、山里などに移ろひて、便悪しく、狭き所にあまたあひ居て、後のわざども営み合へる、心慌たたし。日数の早く過ぐるほどぞ、ものにも似ぬ。果ての日は、いと情けなう、互ひに言ふこともなく、我かしこげに物ひきしたため、散り散りに行きあかれぬ。もとの住みかに帰りてぞ、さらに悲しきことは多かるべき。「しかしかのことはあなかしこ、あとのため忌むなることぞ。」など言へるこそ、かばかりの中に何かはと、人の心はなほうたておぼゆれ。

結婚式とか葬式が、死んだ人やあらたに入ってきた人のつくるある種のオブジェみたいな感覚を意味で埋めようとするのか、人間関係の再編成を測りたいのか知らないが――なぜか家族ではなく客達が余分なことを言ってしまうのは昔からであった。実に不思議である。ああいう儀式はやるだけ意味があると言われ続けているんだが、一族郎党をむしろ分解するための意味であるかも知れないのである。

人が死んだり、誰かと結婚することで、一族達はばらばらになるきっかけを得る。それを言わずにきっかけを得るのである。それでも、完全に縁を切るのは生存のために危険だということで、石をモニュメントとして置いたり、派手に贈り物を贈りあったりする。――しかし結局は、告別の儀式なのである。最近は、家族でもやたらものを送りあったりするが、コミュニティの崩壊はここまで来たかという感じだ。

 告別式の盛儀などを考えるのは、生き方の貧困のあらわれにすぎず、貧困な虚礼にすぎないのだろう。もっとも、そういうことに、こだわることも、あるいは、無意味かも知れない。
 私が人の葬儀に出席しないというのは、こだわるからでなく、全然そんなことが念頭にないからで、吾関せず、それだけのことにすぎない。
 もっとも、法要というようなものは、ひとつのたのしい酒席という意味で、よろしいと思っている。


――坂口安吾「私の葬式」


安吾は優しい人なので、結局たのしい酒席を否定できなかった。これこそが、一番の虚礼のメインなのに。安吾は、結局、葬式や結婚式に出席する人間の気持ちを代弁してしまってるのではないだろうか。

そういえば、日本の文壇に限らず、お酒が入った座談というのは、その壇の花のひとつである。最近では東浩紀氏の中心とする「シラス」なんていうのも、出席者がずっと飲んでる。見事なプラットフォームである、――しかし若干心配なのは、それが一種の告別の機能みたいなものをもっていやしないだろうかということだ。

ものと思い出

2021-06-05 23:58:01 | 文学


静かに思へば、よろづに過ぎにし方の恋しさのみぞせんかたなき。人静まりて後、長き夜のすさびに、何となき具足とりしたため、残し置かじと思ふ反古など破り棄つる中に、亡き人の手習ひ、絵かきすさびたる、見出でたるこそ、ただ、その折の心地すれ。このごろある人の文だに、久しくなりて、いかなる折、いつの年なりけんと思ふは、あはれなるぞかし。手馴れし具足なども、心もなくて変はらず久しき、いと悲し。

まさかとは思っていたが、日本はオリンピックをやるつもりらしく、――そもそも東京に五輪を呼んでくるころから笑いが止まらない感じではあったが、このままいくと笑い★にしてしまいそうであるから、そろそろ真面目に勉強して夏を乗り切らないとただでも弱っている体と心が崩壊してしまう。

ということで、昨日柳田國男の戦時下のことがゼミで話題になったから、弟子・堀一郎の『遊幸思想』(昭和19)を読み始めた。神社巡りをしてみると、神社は一種のコンビニであり、支所であり、と思わざるを得ないのであるが、いまとちごうて確かに誰かがくろうしてやってきて、そこに住んでいる人がさていっちょ石を持ってきて、などとやったわけである。昨今のように、簡単に居場所づくりとか言っている口舌の徒とは違うのである。

わたくしは、しかし、戦時下のどんづまりで日本を覆い尽くしていった遊幸に思いをはせている柳田の弟子が、やっぱりうえの徒然草の思い出人間とあまり違わないような気もするのであった。兼好法師は何歳だったかしらないが、こうなってしまってはほとんど死んでいるのと同じだ。堀はむろん大東亜共栄圏の形成と、かつての日本の仏化と皇化の努力をかさねるみたいなことを表面上やっているわけで、それ自体は観念的なものだが、当時は「満州国」が現実に作動していたのである。

徒然草の作者は、上のような思い出が「あはれなるぞかし」と言っているわけで、まだ若い可能性がある。あるいは、ものすごく鈍感な人である。『すべて水の中』ほどではないが、フラッシュバックでおかしくなりそうな人だけに人生は始まるものだ。思い出に浸るとき、思い出はその実未来に投影されていて、それでもなんの波風も立っていないのだから、――何も起こっていないわけである。怖ろしい思い出は、未来に投影されない代わりに現在に直撃し続ける。

考えてみると、空襲がある日常は、そのフラッシュバックが現在を撃っている状態であるかも知れず、柳田も堀も、新たな日本の創造を果たすつもりだったのかもしれない。そこはもう浪漫派的なものとは違っていたのかも知れない。――とはいえ、そんなことは相対的な違いに過ぎない。物理的な、精神的な破壊がやってきたときには我々はほとんど精神的抵抗は出来ない。

南山の たたかひの日に
袖口の こがねのぼたん
ひとつおとしつ
その扣鈕惜し

べるりんの 都大路の
ぱつさあじゆ 電灯あをき
店にて買ひぬ
はたとせまへに

えぽれつと かがやきし友
こがね髪 ゆらぎし少女
はや老いにけん
死にもやしけん
はたとせの 身のうきしづみ
よろこびも かなしびも知る
袖のぼたんよ
かたはとなりぬ

ますらをの 玉と砕けし
ももちたり それも惜しけど
こも惜し扣鈕
身に添ふ扣鈕


――鷗外「扣鈕」


さすが鷗外で、失われてしまった物体こそが、怖ろしく想念を生むことを知っていた。釦でも命でも同じである。それに比べて、レガシーがなんちゃらと言っている我が国はもはや気が狂っている。前回のオリンピックは、失われたものが多かった時代を通過したからまだましだったのだ。

復活論

2021-06-04 23:27:12 | 文学


京極殿・法成寺など見るこそ、志留まり事変じにけるさまは、あはれなれ。御堂殿の作りみがかせ給ひて、庄園おほく寄せられ、我が御族のみ、御門の御後見、世の固めにて、行末までとおぼしおきし時、いかならん世にも、かばかりあせ果てんとはおぼしてんや。大門・金堂など、近くまで有りしかど、正和の比、南門は焼けぬ、金堂はその後倒れ伏したるままにて、とり立つるわざもなし。無量寿院ばかりぞ、そのかたとて残りたる。丈六の仏九体、いと尊くて並びおはします。行成大納言の額、兼行が書ける扉、あざやかに見ゆるぞあはれなる。法華堂なども、いまだ侍るめり。是も又、いつまでかあらん。かばかりの名残だになき所々は、おのづから礎ばかり残るもあれど、さだかに知れる人もなし。されば、よろづに見ざらん世までを思ひおきてんこそ、はかなかるべけれ。

「よろづに見ざらん世までを思ひおきてんこそ、はかなかるべけれ」、自分の死後まで計画を立てるというのは儚いことであって、道長の法成寺もこのありさまなんだから、――という兼好法師である。

しかし、今日のゼミでも話題になっていたのだが、柳田國男が終戦直前の頃書いていた「先祖の話」なんかを読むと、無常観というのは、その実、何者かの持続と裏腹である。兼好法師だって、こういう寺の荒廃を語ってしまうことによって、道長の持続を支えている。道長は死んではいるが死んでいない。共同性の事実において死んでいないのである。

人は簡単に死に、かつ墓におり、帰ってきたり去ったりする循環があって、これはある種の事実性である。それが全部ではないがよくある「家」というものであった。これが国民国家の制度に案外フィットしてしまった事態が問題なのである。

 人間がだんだん殖えて世の中が賑やかになると、歴史のおもてに蛇はでなくなつたやうだ。藤原の道長が栄華の絶頂にゐた時分のこと、大和の国から御機嫌伺ひとしてみごとな瓜をささげて来た。夏のゆふ方で、道長は「ほう、うまさうな瓜だな!」とその進物の籠をながめてゐた。そのとき御前に安倍晴明と源頼光が出仕してゐたが、安倍晴明は眉をひそめて「殿、ただいまこのお座敷には妖気が満ちてをります。この籠の瓜が怪しく思はれます」と眼に見るやうに言つた。すると頼光がいきなり刀を抜いてその瓜を真二つに切つた。瓜の中に小さい蛇が輪を巻いてかくれてゐた。これは殿を恨むものの思ひが蛇となつてその瓜にこもつてゐたのだといふ話であるけれど、加工品の中に蛇を隠し込むのとは違つて、瓜の中に初めから蛇の卵がひそんでゐて瓜と一しよに育つたと考へてみれば、それはやつぱり陰陽師安倍晴明が言つたとほり妖しい瓜であつたのだらう。これはごく小さい蛇。

――片山廣子「大へび小へび」


考えてみると、道長も瓜の中で育った蛇のようなものだ。瓜とは我々のなかで生きている『生』の保存法みたいなものだ。晴明のようにある種の暴露によって殊更に復活して表に出てくる。

2021-06-02 18:10:51 | 文学
飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば、時移り、事去り、楽しび・悲しび行き交ひて、はなやかなりしあたりも人住まぬ野らとなり、変はらぬすみかは人あらたまりぬ。桃李もの言はねば、たれとともにか昔を語らん。まして、見ぬいにしへのやんごとなかりけん跡のみぞ、いとはかなき。

昨日、授業で徒然草や廃墟のペルソナ論について話したりしたんだが、兼好法師が実に惜しいと思うのは、批評魂が邪魔して桃李などの声が聞こえない、ほんとうは頭の中でヒビイているのだそれが抑圧されてしまっているのだ。やんごとなかりけん跡にいっても、無常を感じ、その実、そのやんごとなき何者かの声がヒビイているにも関わらず、それが無常の風の音に変換されて了っている。まさに人間の魂の塊のような人である。

さきほど庭に出たらこんな感じで話しかけられたぞ



そんなわけはないのだが、明らかに花というのは顔のかたちをしている。

 怠惰ほど、いろいろ言い抜けのできる悪徳も、少い。臥竜。おれは、考えることをしている。ひるあんどん。面壁九年。さらに想を練り、案を構え。雌伏。賢者のまさに動かんとするや、必ず愚色あり。熟慮。潔癖。凝り性。おれの苦しさ、わからんかね。仙脱。無慾。世が世なら、なあ。沈黙は金。塵事うるさく。隅の親石。機未だ熟さず。出る杭うたれる。寝ていて転ぶうれいなし。無縫天衣。桃李言わざれども。絶望。豚に真珠。一朝、事あらば。ことあげせぬ国。ばかばかしくって。大器晩成。自矜、自愛。のこりものには、福が来る。なんぞ彼等の思い無げなる。死後の名声。つまり、高級なんだね。千両役者だからね。晴耕雨読。三度固辞して動かず。鴎は、あれは唖の鳥です。天を相手にせよ。ジッドは、お金持なんだろう?

――太宰治「懶惰の歌留多」


ここまでくると桃李も顔であることやめる。人間が喋りすぎると、花ではなく雑草じみてくるのである。われわれはやはり植物を模倣している。