なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンデーサンライズ507 新潟にて

2025年02月23日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第507回。令和7年2月23日、日曜日。

 

新潟に来ています。

昨日は新潟県第4宗務所布教師研修会における法話でした。

布教師の研修会ということで、当初それ向けの講演の準備をしていましたが、1週間前によく聞けば檀信徒も加わった「法話会」なのだと分かり急遽内容を変更して臨みました。

たっぷり90分の時間をいただいたので、色々な話をさせていただきました。

盛り込み過ぎと分かってはいましたが、たっぷり時間があるとあれも言いたいこれも言いたいとついついてんこ盛りになってしまいます。聴く側で取捨選択してもらえればと思います。

皆さんに申し上げたのは「聴き流して欲しい」ということ。

ただぼんやり話を聴いて、それでも最後に何か心に引っかかるもの、心に残ったものがあれば、それが今のあなたに必要なもので、それ以外のものはあってもなくてもどうでもいいものだから忘れてもいい、ということ。

メモを取ったとしても、後から読み返すことはほとんどないでしょうし、レジュメを配っているのでそれを見ればある程度のことは思い返せるでしょう。

メモを取ることで話が頭に入らないこともあるので、まずはぼんやりでもいいので顔を見て話を聴いて欲しいと思っています。

そう考えるのは、以前に新聞で読んだコラムが頭に残っているからです。

平成26年4月18日の山形新聞、気炎「講演考」。

「<自分に本当に必要なことは忘れない。忘れるのは自分に必要ではないからだ。だから頭のいい人は講演を聴くときメモを取ったりはしない>ー仕事に就いたばかりの私にある先輩がこう教えた。何もかも忘れたその果てに、それでも残るものこそ教育である、という言葉もある。忘れることを恐れずに「時産時消」の講演を楽しむのがいい。忘れた先に何が残るか、それを楽しみたい。」(天見 玲)

さて、昨日の法話で聴衆に何か残ったでしょうか。何も残っていなくてもそれはそれで「時産時消」「場産場消」「一期一会」の講演なのでしょう。

終ってから宿に泊めていただき、打ち上げというか懇親会というか、懐かしい和尚さんたちも駆けつけてくれて賑やかな新潟の夜となりました。

 

2月に入ってから大雪が降り、除雪に追われる日々が続きました。

留守にしていた期間もあり、その間甥っ子が除雪作業をやってくれました。

屋根から落ちた雪と屋根の雪がくっついてしまい、放っておくと凍る時に軒の垂木を壊してしまうことになるのでどうしても切り離しておく必要があります。

庫裡の裏まで除雪機を回し、切り離して飛ばす作業が今期は3回に及んでいます。

更にどうしても溜って落ちない屋根の合わさり目の雪は手作業でおろすしかありません。

今年は大雪になると予想されながら、1月までの様子ではたいしたことないと高をくくっていましたが、結果的に予想通りとなりました。

仕方ないですね、昨年の雪不足による農作物への影響を考えればこの雪があればこその特産品なのですから、雪国には雪があってのありがたさと受けとめなければなりません。

昨日の新潟までは車で来ようと思っていましたが、やはり雪の峠越えが心配で新幹線にしました。

大宮回りなので時間は多少かかりますが、講演時間に確実に間に合うために安全策を取りました。

今日これから戻ります。

 

そういえば、今日2月23日は中島みゆきさんの誕生日でした。73歳になりましたね。

札幌生まれですが、やはり今年のように雪が多かったでしょうか「美雪」と名付けられました。

中学時代には母の体調不良で実家の山形に身を寄せ、4か月間山形市立第6中学校に籍を置いていました。

どうしてこんな歌詞が書けるのかと不思議に思うほどですが、その観察力の鋭さ、共感力の凄さにただただ敬服するばかりです。よほど自分を深く見つめることがあったのだろうと思います。

歌詞だけであれば詩集でいいわけですが、その詩によりそう曲をまとわせ、その人間になり切って歌えるという、これはもう特別な能力という他はありません。

単なる歌手ではないと私は受け止めています。

こういう人とこの同じ時代に生きることができることを、本当に幸せに思います。

誕生日おめでとうございます。

 

今週の一言

「不要なものは残らない」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。


サンデーサンライズ506 無常を学ぶ

2025年02月16日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第506回。令和7年2月16日、日曜日。

 

先週日曜日に上京し、昨日戻ってきました。

令和6年度曹洞宗布教師養成所の3回目で、研修道場に缶詰めで1週間を過ごしました。

今年度は主任講師を務めたため、1年間365日、養成所のことが頭から離れませんでした。

自分の持っているものしか出せない訳ですから、どうやったら全てを出し切ることができるか考えて考えて務めてきました。

ほぼ出し尽くして抜け殻のようになったつもりでしたが、自分が出した以上にいただいて受け取ったものが多く、一回り大きくなったかもしれません。もうこれ以上は増えなくてもいいのですが。それは体重の話です。

年間テーマを「法が良薬ならば」として、①根本苦、②社会苦、③生きがい苦に分類して3回学んできました。

現代社会の苦悩に仏教は「役に立つのか」という命題を立てて取り組んできましたが、それは現代に生きる僧が「役に立てているのか」を自らに問い、怠惰を恥じ、自らを鼓舞することでした。

50名の養成所員が、その人々の苦悩に向き合う法話作成に真剣に取り組んでくれました。

様々な場面を想定し、その救いとしての法、良薬を施そうとしてくれました。

大いに刺激をもらいました。

この歳になってこれほど学べることは幸せなことだと感じています。

全ての日程を終え、ようやく肩の荷が下りて、ため息をつきつき帰ってきたところです。

 

そして昨日2月15日は、お釈迦様のご命日涅槃会でした。

いつものように梅花講の皆さんに前日大量の涅槃団子を丸めてもらい、お供えして法要を勤めました。

涅槃図には、沙羅の林に横たわるお釈迦様を取り囲み、大勢の人々、菩薩、鬼神、動物、昆虫、いわば生きとし生けるものが泣いています。

 涅槃図の みな泣いていて あたたかし (阿部月山子)

2600年ほど前のこの場面はおそらく実際にこのような光景であったのだろうと思います。

お釈迦様は、聖人だとか立派な人だとかの前に「あたたかいお人」であったのだろうと想像します。

そのお人柄に接したすべての命が、あたたかい涙を流しているのだろう。

虫魚や草花に至るまで、そのあたたかいまなざしに触れたのに違いないと思います。

生まれた人は必ず死ななければなりません。

我々の最期も、お釈迦様のように、その人生を讃え、寿ぎ、あたたかく見送られる、そんな葬儀でありたいと思います。

現在の仏式の葬儀はお釈迦様の最期のお姿に真似て勤められます。

お釈迦様は生前から、頭寒足熱として頭を北にして休まれました。沙羅の林でもその通りでした。

ご遺体を「北枕」にするのはそこに由来します。

最期に弟子阿難に「水が飲みたい」と言われたことから「死に水」という風習に続いています。

お釈迦様が亡くなるのを悲しんで沙羅の樹の林の半分が葉を白く枯らしたと言われます。それが「四華(花)」となりました。

一番弟子の迦葉尊者は説法の旅に出ていて臨終に間に合いませんでした。旅先で一輪の枯れた花を持つ人に出会いお釈迦様が亡くなられたことを悟ったと言われます。それが「一本華」の由来です。

お釈迦様が誕生して7日目に亡くなられたとされる実母のマーヤ夫人が、天上から妙薬を投下したけど間に合わず、それを団子にして供えたとされる故事により「枕団子」となりました。

すべて、お釈迦様のお別れの様子を再現したいという思いから、行われ続けてこられたことでしょう。

死は悲しいことではあるけれど、あたたかい別れでありたいとのことだと受け止めています。

そこに仏教のありがたさを感じます。

 

「世は無常」であることを、徹底して腹落ちするからこそ、志を強くすることができます。

怠けてはならぬ、精進しなければならぬという志です。

その志を以て修行を続ければ、どんな人も悟りに至らないということはない、と仏祖は教えています。

涅槃図を拝む度に無常を観じなければなりません。精進せよ、弁道せよ。

 

今週の一言

「学ぼうとしなければ学べない」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 

 

 

 


サンデーサンライズ505 雪に耐える

2025年02月09日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第505回。令和7年2月9日、日曜日。

 

今季最大の寒波がやって来てドカッと降りました。

一晩に50㎝ほど積もるとなかなかのものです。他所では6時間に85㎝積もった所もあるとのことでその大変さが想像されます。

春になれば消えるとは言え、一時期でも大量に積もればその処理に難儀することは雪国でなければ分からないことでしょう。

ただ、雪に慣れていない地域に降られるのもそれはそれで大変だと思います。

テレビ報道を見ながら雪国の人は「それぐらいの雪で」と鼻で笑うことがありますが、大変なのは雪の量ではなくて慣れていないということなのですから、苦労はそれぞれなのだということです。

雪による事故も多発しますから、お互いに十分気をつけましょう。

 

何にしても他人の苦労というものはなかなか分からないものです。

他人の体の痛みも、どこが、どんな風に、どれだけ痛いのかは実際は分かりません。

痛みに強い人もいれば弱い人もいる、それぐらいでと言われても痛いと感じるのはその人ですから、誰かと比べて大したことないと判断されるべきものではありません。

昔あるテレビドラマで観たシーンを覚えています。ケガか何かで病院に入院している孫娘を見舞ったおばあちゃん、確かミヤコ蝶々だったと思いますが、「痛かったか、それは良かったなあ」と言う。

孫が「こんなに痛いのに何で良かったの?」と聞くと、おばあちゃんが「これからの長い人生には痛いことや辛いことがぎょうさんある。その時に、私はあの痛みに堪えられたんだから大丈夫、乗り超えられる、と思えるやろ」と教えるシーンです。

妙に納得した記憶があります。

他人の痛みは分からないけれど、自分の痛みは記憶として残り自分の中で比べることはできますね。

また、痛い思いをしたからこそ、他人の痛みを想像することもできます。「あの人の痛みは自分のあの時の痛みよりもっと痛いだろうか」と想像することができるものです。痛い思いも決して無駄ではありません。

 

永平寺で坐り詰めの坐禅をしていた時、朝から晩まで何日も坐っていると、もう足が痛いというよりも体全体で痛みを感じるようになってきます。

その時に頭に浮かんだのは「カンボジア難民の当時の痛みはこんなものだったろうか」という問いでした。

もちろん痛みの種類は違います。

食べ物がなくて餓死していく人、ケガや感染症で死んでいく人、強制労働で体が痛めつけられる人、暴行を受ける人、拷問を受ける人、目の前で親を殺される子どもたち。

どれほど血の涙を流しただろうか、どれほど体も心も痛かっただろうか。

それを想像すると、今のこんな痛みなどと比べようもないに違いないと、歯を食いしばり「痛みよ、もっとやって来い!」と奮起したことでした。

痛い経験をしたことのない人には、痛みそのものを想像することができません。

他人の痛さや辛さは分からないことではあるけれど、想像できて共感することができます。

その能力を我々は備えています。

脳内にミラーニューロンという細胞があり、それが共感や慈悲の元となると言われています。

なので、痛みを知る人ほど他人に優しくなりましょう。

自分と同じ痛みを味わわせたいと思うのは智慧のない考えです。

相手が痛い思いをしたからといって自分の痛みが軽減されるわけではないのです。

お釈迦様は「恨みは恨みによって解消されない」と教えました。

周りの楽しそうな人を見ると「何で自分ばかりこんな目に遭うんだ」と思ってしまいがちですが、よくよく見れば、誰しもそれぞれの悩みを抱え、苦労を乗り越えてきた人ばかりです。

自分の辛さや痛みを分かってくれる人も必ずいるはずです。

「禍福はあざなえる縄の如し」とは古いことわざですが、良いことや悪いことは縄目が表になったり裏になったりするように、現れたり消えたりするものだという意味です。

今楽しそうに見える周りの人にも辛い時期があったでしょうし、今辛い思いをしている自分にも楽しい時があったじゃないですか。

自分が辛い時は相手の楽しさが憎らしく見え、自分が楽しい時は相手の辛さに気がつかないものです。

みんなそうなのですから、「何で自分ばかり」と思うのは間違いです。

今の痛さ辛さは慈悲を養うエネルギーだと受け止めてジッと耐えていきましょう。

ということで、この大雪も自分を鍛えてくれる恵みの栄養ですから頑張って除雪しましょう。でも大変だよね。気をつけてね。

 

今週の一言

「耐えなければならないときは耐えた方がいい」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 

 

 


サンデーサンライズ504 サンセット

2025年02月02日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第504回。令和7年2月2日、日曜日。

 

あっという間に1月が過ぎ、2月に突入しました。

2月も短いのであっという間に過ぎるのでしょうね。

しかし、うるう年の日数調整を2月にしたのは何故でしょうか。しかも、平年が28日でうるう年でも29日という短い月になったのは何故でしょう。きっと理由があるのでしょうねと思います。

 

久しぶりに劇場で映画を観てきました。

『サンセット・サンライズ』。

監督の岸義幸さんの実家が松林寺の檀家ということで観ておかねばならないと思っていました。

主演の菅田将暉が、リモートワークのお試し移住で震災9年後の三陸地方の空き家にやって来るというところからストーリーは始まります。

その大家の井上真央がきれいだった。

2020年、コロナ過の真っただ中。首都圏から人が来るというだけで大騒ぎになる田舎のあるある。

そこに震災後の人口減少、空き家の増加で疑心暗鬼が加わる。

津波で大切な人を失った人々がどのように前を向いていくのか、そこまでにどれほどの葛藤があるのか。

他所の人は被災地の人とどうつきあえばいいのか。

古民家の再生も絡めて、一度沈んだ太陽がまた昇るというテーマに結んでいく。

「サンセット・サンライズ」の順序が重要な意味を持っています。

ただ、正直に言えば若干期待外れでした。宮藤官九郎の脚本ということに期待しすぎたかもしれません。方言や演出がベタ過ぎて自然に楽しめなかったきらいがあります。

それにしても三陸の海の幸はどれも旨そうだった。今度塩辛を白ワインで試してみよう。

 

先日東京からの帰り、迎えに来てくれたカミさんと食事することがありました。それ自体は珍しいことではありませんが、入ったのは初めての「まるまつ」というファミレスでした。ファミレスにほとんど入ったことがありません。

疲れてもいたのでパッと目に就いたものを注文し待っていました。

メニューは麺類から定食類、居酒屋メニュー、デザートと豊富に揃っています。もちろんアルコールもあります。

それを眺めていたカミさんが一言、

「古希の祝いここでいいんじゃない」。

「・・・」。

私、今年数え年の古希を迎えます。

娘たちが家族で温泉でも行きたいと提案しているようです。財布はこちら持ちですが。

それを踏まえた一言です。

そうねえ、安いしねえ、好きな物食べられるし、安いし・・・

だけど、そうなの?

彼女は、よく考える前に浮かんだことを口に出してしまう傾向があります。

別にいいけどね。子どもたちのメニューもあるし。

 

思い出すのは、結婚何周年目かのときに、「どこかへ行こうか」と言うと、

「そうだね、どこがいいかなあ、あなたも行く?」と。

「・・・」。

どうも娘とどこかへ行くことを頭で考えたらしい。

つまらないこの人と何十年も一緒に暮らした自分へのご褒美、てなところでしょう。

いいけどね。でも、結婚記念の旅行って、そういうもの?という感じ。

結局そのままになってしまいました。

今年は実は結婚40周年になっています。

懲りずに「どこかへ行こうか」。

「九州へ行ったことがない」というので、早速観光地を調べてどこへ行くか、泊まりたい宿の検索、飛行機のルートも調べて、3月頃ならとスケジュールも考えて、費用も計算して、エクセルにまとめました。こういう作業が大好きです。

私としては行く気満々でした。

ところが、ちょうどその頃娘の里帰り出産とかぶってしまい、他の日程の予定が立ちません。あえなくお蔵入り、意気消沈してしまいました。

ま、二つ併せてファミレスでの豪華食べ放題の大盤振る舞いが関の山かもしれません。

 

今週の一言

「沈んでいる時間も無駄ではない」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 

因みに、東北管区教化センターのテレホン法話「心の電話」は今月1日から10日まで私が担当しています。

タイトルは「うぐいす餅」よろしければ、022-341-1531 まで電話してみてください。