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三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第191。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
12月30日、日曜日。
今年も残すところあと二日です。
新年を迎える準備は整ったでしょうか。
松林寺では、歳徳善神をお祀りして何とか形は出来上がりました。
あとは除夜の鐘を撞くばかりです。
お寺の正月は三ケ日の三朝祈祷から始まりますが、松林寺では元日に、宿用院では二日に合同祈祷と新年会があります。穏やかな年でありますように祈ります。
多く持っていない人が貧しいのではなく
多く欲しがる人が貧しいのだ
という言葉はスペインの諺だと知りました。
物の多い少ないではなく、欲の多い少ないが「貧しさ」と「豊かさ」を決めるのだ、という教えです。
もっとも、欲の問題ではなく、「絶対貧困」という必要最低限の生活水準に至らない貧しさもあり、満足な食事を摂れない子どもたちがこの国にもいることですから、貧しさを個人的な欲の問題にすり替えることは危険である、ということは指摘しておかなければなりません。
基本的な欲は誰にもあるものですが、人によって多い少ない、強い弱いということがありますね。
色々な人を見ていると、確かに、欲の強い人だなあと思う人と、欲のない人だなあと思う人がいますよね。
その違いの原因は何でしょうか。
育った環境によるもの?
「物がない時代で、兄弟が多かったから」と自分の欲を解説する人がいます。
だとすれば後天的なものですかね。
でも、たっぷりとお金と物がある家庭で育ったと思われる人にも欲が強い人はいます。
難民キャンプの中で食べ物を分け合っていた子どももいました。
生まれつきの性格?
親譲りとか、DNAとかでしょうか。
だとすれば、それは生涯変わらないかもしれませんし、子孫にまで遺伝するように思われます。
果たしてどうでしょうか。
欲が多いというのは、いつも飢餓状態のようなもので、どこまでいっても満ち足りたということを感じられないわけですから、ある意味かわいそうな感じです。
むしろ、欲の少ない人は、物がなくても楽に生きられるように思います。
一般社会ではいろんな人がいていいのですが、お坊さんの世界では、この欲というのが最もふさわしくない煩悩だと最近思います。
お寺を取り巻くトラブルの多くは金銭関係ですが、それだけ、一般社会はお坊さんの「お金臭さ」を嫌っているということでしょう。
会社の社長さんが欲が強いというのはさほど問題にされません。むしろ、「やり手だ」などと評価されるかもしれません。
でも、お布施をたくさん要求するお坊さんを誰もやり手だとは言わないでしょう。
欲は少ない方がお坊さんとしてふさわしいと思われているのだと思います。
欲の強さが、本人の意思とは違うところで備わったものであるならば、その人は、残念ながらお坊さんにはむかないのかもしれません。
金銭ばかりではありません。出世欲や性欲も少ない方がお坊さんらしいと言えるでしょう。
強い欲がありながら、それを抑えるのが修行と思われるかもしれませんが、どうしてどうして、それはなかなか厳しいと思います。
激しい欲と戦いながら、だからこそ厳しい修行に身を投じたお坊さんもかつては居たかと思いますが、現代はほとんどが寺の息子、仕方なくお坊さんになる前に、「自分は欲が強いからお坊さんにむかない」と見切りをつけた方が誰のためにもいいかもしれません。
一般社会では、欲の強さが成功の鍵となるかもしれないのですから。
年の終りにまた謗言を吐いてしまいました。自重、自重。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
三ちゃんの、サンデーサンサンラジオ!
今週もはじまりましたサンデーサンサンラジオ、第191。
お相手は、いつもの三ちゃんこと三部和尚です。
12月30日、日曜日。
今年も残すところあと二日です。
新年を迎える準備は整ったでしょうか。
松林寺では、歳徳善神をお祀りして何とか形は出来上がりました。
あとは除夜の鐘を撞くばかりです。
お寺の正月は三ケ日の三朝祈祷から始まりますが、松林寺では元日に、宿用院では二日に合同祈祷と新年会があります。穏やかな年でありますように祈ります。
多く持っていない人が貧しいのではなく
多く欲しがる人が貧しいのだ
という言葉はスペインの諺だと知りました。
物の多い少ないではなく、欲の多い少ないが「貧しさ」と「豊かさ」を決めるのだ、という教えです。
もっとも、欲の問題ではなく、「絶対貧困」という必要最低限の生活水準に至らない貧しさもあり、満足な食事を摂れない子どもたちがこの国にもいることですから、貧しさを個人的な欲の問題にすり替えることは危険である、ということは指摘しておかなければなりません。
基本的な欲は誰にもあるものですが、人によって多い少ない、強い弱いということがありますね。
色々な人を見ていると、確かに、欲の強い人だなあと思う人と、欲のない人だなあと思う人がいますよね。
その違いの原因は何でしょうか。
育った環境によるもの?
「物がない時代で、兄弟が多かったから」と自分の欲を解説する人がいます。
だとすれば後天的なものですかね。
でも、たっぷりとお金と物がある家庭で育ったと思われる人にも欲が強い人はいます。
難民キャンプの中で食べ物を分け合っていた子どももいました。
生まれつきの性格?
親譲りとか、DNAとかでしょうか。
だとすれば、それは生涯変わらないかもしれませんし、子孫にまで遺伝するように思われます。
果たしてどうでしょうか。
欲が多いというのは、いつも飢餓状態のようなもので、どこまでいっても満ち足りたということを感じられないわけですから、ある意味かわいそうな感じです。
むしろ、欲の少ない人は、物がなくても楽に生きられるように思います。
一般社会ではいろんな人がいていいのですが、お坊さんの世界では、この欲というのが最もふさわしくない煩悩だと最近思います。
お寺を取り巻くトラブルの多くは金銭関係ですが、それだけ、一般社会はお坊さんの「お金臭さ」を嫌っているということでしょう。
会社の社長さんが欲が強いというのはさほど問題にされません。むしろ、「やり手だ」などと評価されるかもしれません。
でも、お布施をたくさん要求するお坊さんを誰もやり手だとは言わないでしょう。
欲は少ない方がお坊さんとしてふさわしいと思われているのだと思います。
欲の強さが、本人の意思とは違うところで備わったものであるならば、その人は、残念ながらお坊さんにはむかないのかもしれません。
金銭ばかりではありません。出世欲や性欲も少ない方がお坊さんらしいと言えるでしょう。
強い欲がありながら、それを抑えるのが修行と思われるかもしれませんが、どうしてどうして、それはなかなか厳しいと思います。
激しい欲と戦いながら、だからこそ厳しい修行に身を投じたお坊さんもかつては居たかと思いますが、現代はほとんどが寺の息子、仕方なくお坊さんになる前に、「自分は欲が強いからお坊さんにむかない」と見切りをつけた方が誰のためにもいいかもしれません。
一般社会では、欲の強さが成功の鍵となるかもしれないのですから。
年の終りにまた謗言を吐いてしまいました。自重、自重。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。