Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

震災雑感 

2011年03月15日 20時29分26秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 ある人にブログには震災についてのコメントは掲載しないのか、と言われた。前回「帰宅難民」と題して掲載したが、「震災に対処している現在の政治システム・社会システムに対する批判が必要だ」というのだ。
 だが私は、日が経過するに従い、ますます自分の口が一層重くなる思いがしている。それは「そんな批判はためにする批判」の典型と思うからだ。
 決壊した堤防の強度不足・手抜き工事ではないか、地震予知がなっていない証拠ではないか、計画停電の無計画性・決断の遅さは問題ではないか、JRは弛んでいて復旧が遅い、いまこそ原発そのものの安全性批判を行うべきだ、政府や電力会社の対応の遅さを指摘すべきだ‥‥意見はいくらでも投げかけられている。
 だが、だが、と私は幾度も口ごもる。
 まず事態は始まったばかりの現在進行形で、かつ、緊急事態である。「当事者になってこの事態に直面した場合に批判するお前は批判に耐えられるだけのことをこなせるのか」といえばすべては終わりだろうと思う。原子力発電批判もそうだ。私も原子力発電にたよる今の電力環境には大いに批判がある。しかし一方で1000人を超える現地の従業員ならびに社員の現在の労働についてはその努力を見守るしかないと判断した。

 私の口が重くなる所以の第2は報道である。震災のテレビニュースはNHKと民放を交互に見たが、私が見続けたのはいつのまにかNHKだけになってしまった。民放のアナウンサー・キャスターなる者、解説者・コメンテーター・専門家なるものの頓珍漢な質問・愚問、「解説」にうんざりしたことがあげられる。まだ政府や自治体当局者のコメント中心のNHKの方が、その裏にあるもの、隠れていて見えないものを自分なりに想像・想定しながら、さらに自問自答しながら見聞きできる幅があると判断した。
 そして多くの疑問は時間の経過とともに次のニュースで解消された。未だにわからない疑問も数多くあるが、それは電力会社と原子力行政のこれまでの隠蔽体質、日本の政治システム・社会システムの、一概に遅れているとは言わないが、体質・限界とやむなく了承しつつ見ている。自分なりに疑問を呈しつつ情報を見聞きするという点では良い刺激ではある。

 私の口ごもる第3の理由は次のとおりである。私たちが今の震災の情報の中で見なくてはならないのは、当該避難者のたちの自立・自助の自発的行為の次元の評価であり、たくましさである、と考えるからだ。当然政治や社会システムを通した支援は必要であるが、それがどのようにこなされるか、現在の政治システムを相対化し、あらたなシステムを展望しうる行為や共同性の萌芽を抽出できる思想が問われている。今すぐに判断や批判を出せる状況ではない。課題は重い。皮相な批判ほど、声高の批判ほど本質からはずれるものであると思う。

 最後に私が言えるとすれば、私たちの世代、団塊の世代及びその直後の世代は、現行のシステムに寄りかからずに生き抜く図太さはあり、それを当該者ではなくとも仮想現実として追体験・シュミレーションし得る強さがあるだろうということだ。同時に戦後の政治・社会システムを持続的に変えてきた強さも持ち合わせている世代でもある。

 私はこんなことを思いながら震災とその報道、震災の行く末を見ている。