菅直人総理大臣のアピールが本日もあった。地震発生以来幾度目かのアピールだが、私がどうしても気になる言葉がある。「日本人」という言葉だ。日本国の総理大臣である以上、「日本国民」があえて言えばそれに近い言葉ということだろうか。これでは自民党の総理大臣となんら代わり映えのしない認識ではないだろうか。
「日本人」という言葉はどう見てもおかしい。日本国の領域に住む人々、日本国籍を有する人々という程度で無造作に使っているようにように思う。しかし日本国籍を有する「日本国民」=「日本人」ではないと思う。日本では「○○国民」というべきところを「○○人」と安易に不用意に言ってしまうようだ。
ましてこの震災の被害者・犠牲者にはそれこそ「日本国民」でない人々もいるかもしれない。
どうも「国家」というものの基本的な視点が欠けてはいないだろうか。
そしてもう一つ、「国難」という言葉もよく出てくる。日本国にとって重大な難局にある、という意味で使っているのであろうが、私(の世代)の多くは違和を感ずるのではないだろうか。一義的に困難に直面しているのは「国民」であり、被災者である。その規模において復興においては「国家」レベルの困難・危機は、それに付随してもたらされるのである。今の段階において「生命・生活の危機」=「国家の危機」と勝手に短絡的に結び付けないでもらいたい。これは別物である。
菅直人という人の経歴からはこの位のことはわかっていてもらっていてしかるべきなのではないか。
「日本人」という言葉はどう見てもおかしい。日本国の領域に住む人々、日本国籍を有する人々という程度で無造作に使っているようにように思う。しかし日本国籍を有する「日本国民」=「日本人」ではないと思う。日本では「○○国民」というべきところを「○○人」と安易に不用意に言ってしまうようだ。
ましてこの震災の被害者・犠牲者にはそれこそ「日本国民」でない人々もいるかもしれない。
どうも「国家」というものの基本的な視点が欠けてはいないだろうか。
そしてもう一つ、「国難」という言葉もよく出てくる。日本国にとって重大な難局にある、という意味で使っているのであろうが、私(の世代)の多くは違和を感ずるのではないだろうか。一義的に困難に直面しているのは「国民」であり、被災者である。その規模において復興においては「国家」レベルの困難・危機は、それに付随してもたらされるのである。今の段階において「生命・生活の危機」=「国家の危機」と勝手に短絡的に結び付けないでもらいたい。これは別物である。
菅直人という人の経歴からはこの位のことはわかっていてもらっていてしかるべきなのではないか。