「芸術新潮」5月号が「狩野一信」を特集していた。五百羅漢図から私が「救済」のイメージを受け取れないので、解説に目を通してみた。
すると山下裕二という解説者も「六道の20幅を見ていると、一信はこの《五百羅漢図》を救済を意図して描いたのだろうという根本的な疑問が湧いてきます。じつは救いなどないのだというメッセージとも読めるからです。また一信の中には、貧富の差のような、現実世界の残酷さに対する覚めた意識が強くあったのではないか」と記載している。
地獄図や鬼趣、修羅の図に比して、「六道・人」「六道・天」など羅漢の仕草も表情も、そして舞台・場面も迫真的なものはない。劇的な構成もない。気力が充実しているといわれる初期にしては物足りない。
また六道の次の場面が墓場などの瞑想・座禅の羅漢図であることなどを考えると、当時の江戸庶民のそれも卑俗で猥雑なドロドロした、都市の下支えの社会のエネルギーに依拠していた狩野一信という絵師の姿が髣髴としてくる。上品な「天」や悟りやなど興味もないと言いたげである。そして安直な「救済」など鼻から信用していない庶民のしたたかさとでもいうものであろうか。それは後半の「龍供」の素っ気ない描写でもわかる。同じく後半の生き生きとした大工職人の姿などと対照的である。
狩野一信の絵の根拠の一つを垣間見たような気がする。
すると山下裕二という解説者も「六道の20幅を見ていると、一信はこの《五百羅漢図》を救済を意図して描いたのだろうという根本的な疑問が湧いてきます。じつは救いなどないのだというメッセージとも読めるからです。また一信の中には、貧富の差のような、現実世界の残酷さに対する覚めた意識が強くあったのではないか」と記載している。
地獄図や鬼趣、修羅の図に比して、「六道・人」「六道・天」など羅漢の仕草も表情も、そして舞台・場面も迫真的なものはない。劇的な構成もない。気力が充実しているといわれる初期にしては物足りない。
また六道の次の場面が墓場などの瞑想・座禅の羅漢図であることなどを考えると、当時の江戸庶民のそれも卑俗で猥雑なドロドロした、都市の下支えの社会のエネルギーに依拠していた狩野一信という絵師の姿が髣髴としてくる。上品な「天」や悟りやなど興味もないと言いたげである。そして安直な「救済」など鼻から信用していない庶民のしたたかさとでもいうものであろうか。それは後半の「龍供」の素っ気ない描写でもわかる。同じく後半の生き生きとした大工職人の姿などと対照的である。
狩野一信の絵の根拠の一つを垣間見たような気がする。