Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

歩くということ

2011年06月09日 21時44分21秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 私は歩くのが好きだ。歩くということに意識的になったのはいつのことだったか。
 小学校入学以来走ることはとても苦手だった。それが小学校6年生のとき50m走で突如クラスで一番になった。7秒9だった。5年生の後半から横浜の郊外に移り、毎朝15分近く小走りに駅まで行き、一駅かけて学校に通った。学校建設が人口の急増に追いつけない時代の横浜であった。次の駅で降りてからも急坂を約5分必死に走って遅刻を免れるまいにちだった。50m走でクラス一番になった時、即座にこの朝の小走りのおかげと悟った。
 中学高校とやはり駅まで小走りを続け、学校の最寄り駅からの15分も小走りで必死であった。おかげで持久力はついたようだ。仙台の大学ではバス代を浮かすために1時間前後はいつも歩いた。大学に顔を出すにも、街中に出るにも、真冬でも素足にサンダルを履いて歩き続けた。このころから歩くことの楽しさを感じるようになった。
 就職後はしばらく歩くことからも遠ざかったが、20代後半から40代半ばまでひたすらジョギングと夏山登山、それ以降はウォーキングと足だけは自信がある。
 歩いていると実にさまざまなことを考えるし、思い浮かべる。脳が活性化するのであろう。その考えることが目的となって歩いているような気もする。その分周りの風景は見ていない、というか記憶にない。
 さて最近はあるきながら考えること、思い浮かべることは、仕事を早く卒業したい、定年を迎えたい、定年後は仕事はしたくない、仕事を辞めてこんな本を読みたい、あんなことをしたいなどと思うばかりだ。
 これはあと10ヶ月仕事を続けなければならない身にとってはちょっと危険かもしれない。定年までの最後の1年は長くつらいよといわれたことがある。この定年までの10ヶ月が長くしんどいものとすれば、歩きながら定年後のことを考えることを抜きにしたら、このつらいとよく云われる10ヶ月間もう身が持たないかもしれないのだ。
 私にとって歩くことは、このつらくしんどいといわれる10ヶ月を持たせるためにどうしても必要な行為なのであると思われる。