昨日山吹の花のことを書いていて思いだしたことがある。函館にいた時分、実は幼稚園に通っていた頃だと思うが、近所で飼っている犬に「襲われた」事がある。つながれていなかったいなかったはずだ。当時の私の身長で胸まで前足をかけられさんざん吠えたてられた。その場にいた大人たちはだれも助けてはくれなかった。本当は吠え立てられたのではなく、犬がじゃれついたのかも知れない。しかしその恐怖は今でも忘れられない。
私の犬の記憶はそのときからだ。そしてそれ以来幼稚園の帰り道、小学校の帰り道、犬が路上にいるともう動けなくなる。見も心も固まってしまうのである。「後ろを見せて逃げると追いかけてくる」ものだと誰かに教わったらしく、追いかけられるのも嫌で、震えながらただただ犬をじっと見据えていた。
幼稚園や小学校の帰り道、それもあと50m位のところでいつも犬を見つけた。吠え立てられたのと同じ犬だったのか、他の犬だったのかはわからないが‥。30m位の距離を隔てて犬とにらめっこを長時間した。私の記憶では後ずさりはなかったので、犬が横にそれるかしていなくなるまで本当に固まっていた。
当時ではそれが一時間にも二時間にも感じられた。本当に長く感じた。「助けて」と大声で泣き出したかったことも覚えている。たまたま通りがかりの近所の人に後ろについていって犬を避けたこともある。
そんなことだから犬にあった日は玄関に着くのが遅くなる。母親にどうして遅くなったかと問われても、「犬が‥」といえば馬鹿にされそうでこれも怖くてとても言い出せなかった。友達にも言えず、学校の先生にも言えず、一人悶々としていた。
小学4年になって転居してからは、放し飼いの犬にあうことはなかったが、それでもたとえつながれていても犬には近づけなかった。
6年生になった時、短期間だったが家で犬を飼うこととなり、ようやく犬恐怖症から徐々に回復した。しかし未だに吠え立てる犬は嫌いである。犬を可愛がっている人には悪いが、小型犬だろうが、中型犬だろうが、吠え立てる犬は理屈ぬきで嫌いである。嫌悪感が先に立つ。
私は、自分の弱みは、人には相談しても助けにはならず、ひたすら耐えるしかないことをこの犬の経験で身につけてしまったのか、とふと感じることがある。
私の犬の記憶はそのときからだ。そしてそれ以来幼稚園の帰り道、小学校の帰り道、犬が路上にいるともう動けなくなる。見も心も固まってしまうのである。「後ろを見せて逃げると追いかけてくる」ものだと誰かに教わったらしく、追いかけられるのも嫌で、震えながらただただ犬をじっと見据えていた。
幼稚園や小学校の帰り道、それもあと50m位のところでいつも犬を見つけた。吠え立てられたのと同じ犬だったのか、他の犬だったのかはわからないが‥。30m位の距離を隔てて犬とにらめっこを長時間した。私の記憶では後ずさりはなかったので、犬が横にそれるかしていなくなるまで本当に固まっていた。
当時ではそれが一時間にも二時間にも感じられた。本当に長く感じた。「助けて」と大声で泣き出したかったことも覚えている。たまたま通りがかりの近所の人に後ろについていって犬を避けたこともある。
そんなことだから犬にあった日は玄関に着くのが遅くなる。母親にどうして遅くなったかと問われても、「犬が‥」といえば馬鹿にされそうでこれも怖くてとても言い出せなかった。友達にも言えず、学校の先生にも言えず、一人悶々としていた。
小学4年になって転居してからは、放し飼いの犬にあうことはなかったが、それでもたとえつながれていても犬には近づけなかった。
6年生になった時、短期間だったが家で犬を飼うこととなり、ようやく犬恐怖症から徐々に回復した。しかし未だに吠え立てる犬は嫌いである。犬を可愛がっている人には悪いが、小型犬だろうが、中型犬だろうが、吠え立てる犬は理屈ぬきで嫌いである。嫌悪感が先に立つ。
私は、自分の弱みは、人には相談しても助けにはならず、ひたすら耐えるしかないことをこの犬の経験で身につけてしまったのか、とふと感じることがある。