Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

携帯電話依存症

2011年06月25日 15時29分33秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 先日、携帯電話を家に置いたまま出勤してしまった。最寄の駅について携帯電話のスイカ機能を利用しようとして忘れたことにきずいた。家に戻っている時間はなく、やむを得ず券を購入して出勤した。
 私の私用の携帯電話には定期券の機能の他に、いわゆる「支払い」機能も活用している。職場の近くのコンビニかスーパーでその機能を活用して昼食などの買い物をしている。大抵はこれで事足りる。一日千円札一枚を帰宅途中のコーヒー代としてポケットに入れているだけですむ。便利である。職場の友人と帰り際に飲みに行くときは昼休みに銀行のATMで引出せば済む。無駄遣いをしない。そして私の携帯電話は歩数計もかねている。
 しかし私用の携帯電話に機能を集中してしまっているために、その携帯電話を忘れると悲惨な目にあう。昨年の秋には銀行のキャッシュカードをいれたカード入れも忘れ、行き帰りの電車賃代が辛うじて支払いできただけの日があった。
 それだけではない。本来の携帯電話の機能である通話・メール機能が活用できず、私用とはいえ不便極まりない。電話帳機能が使えないので、家族の携帯電話番号もわからない。さまざまな情報も手に入らない。家族・親族・友人に何らかの事故があったとしても連絡が取れないのである。
 幸い先日の場合、家に帰って携帯電話を見てみたら20件のメールと2つの留守電が入っていたが、緊急のものはなかった。

 そしてもうひとつ私が困ったのは、無意識にズボンのポケットに手を入れて携帯電話を探す動作を繰り返すことである。また携帯の振動モードが動作したような錯覚であわてて手を突っ込んだことも数度ある。
 これを携帯依存症というのであろう。
 同時に通勤電車の中での手持ち無沙汰がある。私はさまざまな美術館・博物館や出版社からの無料メールニュースを受信して毎日出勤時に読んでいる。これがないのは実に落ち着かない。これも一種の携帯依存症なのであろう。
 通勤電車の中で携帯電話から目を話さず一心にゲームをやっている人やメールを打っている人を見かけて、決していい印象はないが、実のところ悲しいかな私も同じ症状なのである。ただし歩きながらのメールやゲームなどという馬鹿なことはしない。

 更にもうひとつの教訓がある。3月11日の震災の日、私の勤めている区は全体が停電となった。緊急地震速報やら号外ニュースが頻繁に携帯に着信するため、電池切れ寸前となった。停電で充電もできなくなった。そして歩いて帰宅途中、隣の区でようやく電気がついていて、自動販売機で飲料水を購入したが、電池切れではコンビにでも役に立たない。
 それまで、キャッシュカードなどを入れているカード入れには5000円札を忍ばせていたが、その日以来1万円札を忍ばせることになった。

 世の中こぞって携帯電話依存症の様相を呈している。これは間違いのない現実である。