Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

坂本繁二郎の絵との出会い

2013年06月03日 08時57分21秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 通りがかり人様から昨日の坂本繁二郎の絵についてコメントが寄せられた。コメントを読みながら、私が始めて坂本繁二郎の絵と出合った頃のことを思い出した。

 1970年の3月20から4月1日まで、東京日本橋の東急百貨店(今はなくなって日本橋一丁目ビル)で「坂本繁二郎追悼展」が行われた。当時大学の入学が決まり解放された気分で日本橋まで銀座を歩き、この展覧会を見に行った。
 実はそれまで坂本繁二郎の名はまったく知らなかったが、新聞広告だったかチラシだったかに掲載された絵を見て、無性に見たくなったのだ。追悼展というとおり、前年の7月14日に画家は亡くなっていた。
 絵画展はそれまでも中・高校の頃見ていたが、これほど印象に残った絵画展は初めてだったと思う。そこで馬・月・能面・牛で有名な画家であることを知った。そのときに印象に残ったのが、死の年の「月光」(1969年)という馬の絵と絶筆といわれる「月」(1969年6月)。そして「能面と謡本」(1946~47年)、「放水路の雲」(1927年)、それから昨日取り上げた「うすれ日」(1912年)の5点。
 今でも当時の図録を大事に取ってある。当時はまだカラーの掲載図ぱ12点のみで展示された作品120点の1割でしかない。そして残念ながら絶筆の「月」もモノクロであった。「うすれ日」と「月光」はカラーのカードを購入している。
 この時はこの「うすれ日」が第6回文展に出品され、夏目漱石の目にかなってあの「何か考えている」という有名な評が書かれたことは知らなかった。知ったのはその後2006年のブリヂストン美術館の開館50周年展で「坂本繁二郎展」を開催したときだ。
 坂本繁二郎のあの茫洋としたタッチ・色合いが好きだ。また画家の言葉で「自然を写生するときは、自我を消してしまうのです。そうした後に向こうを見て、自然から自分に宿ってくるものをいかにしてカンバスにとらえたらいいのか-これが私の模索するテーマのひとつでもありました」というのもこの図録で知った。「うすれ日」を描く前年の29歳のとき言葉という。
 同時にブリヂストン美術館での解説では画家の言葉として「「精神作用から来る深さ」を持ち、「象徴的の画とも、あるいは宗教義を持った画」だったに違いない」というのもあり、いまだ整理がつかない。
 私の心情はいつもこの画家の29歳の時の発想とはまったく反対の世界に近い。自分を消すことなどとてもできない。今でも自我にこだわって、そのことをとおして世界を見ることしかしていないと思う。だからこそこの言葉はいつも頭の片隅にある。自分の対極にある考え方として中では整理が出来ていない。そしてこの画家の言葉と漱石の評との落差についてもまだ私の頭の宿題として残しておこうと思う。
 夏目漱石はこの写生の考え方をあの「うすれ日」を見て直感したのだろうか。坂本の言う「写生」というのは正岡子規つながりの言葉なのか、それもわからない。ただ、私はあの静かな紫色がかった、茫洋とした、対象が背景に溶けてしまいそうな画面が好きだ。心が落ち着く。

 死の年の「月光」は、月も、そして厩から月に向けて頭を出している馬も、夜空の空気に溶けてしまいそうである。対象が全体として渾然一体となって意識の中から消失していくような画面が好きだ。馬がその存在を自らそっと消していくようにたたずんでいる。あの柔らかい感じを与える月の光すらその強さを恥じ入るように弱めて空間に漂っている。そして馬と月はひそかに何かを語り合っている。どんなことを語り合っているのか、鑑賞者にゆだねられていることは間違いない。
 スキャナーした43年以上前のカードにこの「月光」の絵がきれいに再現されればうれしいのだが‥。



 また絶筆と言われる「月」は次の画像のとおり。1970年の追悼展では「月」と表示されていたが、2006年の展覧会では「幽月」と表示されている。私は単に「月」の方がいいと思うのだが‥。これも微妙な色の具合がスキャナーで拾うことが出来ればいいのだけれど‥。