Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

対馬の印象(3)

2013年06月17日 21時15分20秒 | 山行・旅行・散策
 白嶽の還り、タクシーで厳原まで行ってもらいながらタクシーの運転手から教わったことなど順不同でいくつか。
・最近は山でも猪が多くなり、時々人に被害が出る。→これは入山前に教えて欲しかった。
・韓国の人は山登りが好きで20名くらいのもの団体でこの白嶽にもよく来る。
・対馬には蘭が自生しているが、残念ながら自衛隊が演習で踏みにじり射撃でダメにしてしまう。
・韓国人の登山者も蘭を持ち帰ってしまう人が多い。日本人の登山者にも悪いのがいることは確かだが‥。
・対馬の人はお墓を立派なのに仕立てる。石も立派なものを建てるし、石に刻んだ文字も金箔で飾り立てる。
・上対馬(北部)は山が多少なだらかなので上対馬にも足を運んで欲しい。
・対馬は山が深く、水が豊かなので水不足ということはまずまい。
・厳原の川沿いにはスナック等が120件もひしめいている。厳原町15,000人に比して多すぎる数といわれる。客は漁師中心といわれ、観光客はあまり利用しない。漁師の気風といわれる。

   

 さて昨日記載忘れしたのが、「半井桃水」についての大納言様からの質問。対馬についたその日に半井桃水の旧居に寄ったのを忘れていた。大納言様のその日の質問に「桃水は樋口一葉のことをどう思っていたのか」というのがあった。この山登りの翌日、対馬最後の日に旧居を再度訪れたが休館日で詳しくは調べられなかった。私の記憶の範囲で展示内容を書いてみる。

   

 まず、桃水は一葉の才能を見出したものの想定以上であったことを後日語っていたらしい。また一葉の死後、一葉の思いが桃水にあったことを日記の公開で知ったらしいが、そのことについては論評は控えたらしい。
 桃水自身は妻を早くに亡くしたらしいが、当時の男としては珍しく24年間再婚はせずにいたらしい。最初の妻の死後24年後に再婚したが、出来た子は若くして亡くなったようだ。
 桃水がどのように一葉のことを考えていたかはわからなかったものの、人に口外するような軽薄な男ではなかったと思われる。

         


 そしてもうひとつ私が書きたいのは雨森(あめのもり)芳洲とその「誠信の交わり」について。

 1990年、盧泰愚(ノテウ)大統領は、「...二百七十年前、朝鮮との外交にたずさわった雨森芳洲は、<誠意と信義の交際>を信条としたと伝えられます。彼の相手役であった朝鮮の玄徳潤は、東莱に誠信堂を建てて日本の使節をもてなしました...」と述べ、日本では忘れられていた雨森芳洲が俄然脚光を浴びた。
 芳洲を顕彰する「雨森芳洲庵」が、1984年生地の高月町雨森に建設された。当時の滋賀県知事だった武村正義は、この事業を積極的に推進したようだ。

 略歴は、1668年(寛文8)~1755年(宝暦5)、対馬藩に仕えて李氏朝鮮との通好実務にも携わった。木下順庵の推薦で、当時、中継貿易で潤沢な財力をもつ対馬藩に仕官。対馬藩朝鮮方佐役として藩政に関する上申書『治要管見』や朝鮮外交心得『交隣提醒』を書いている。思想的には自身が日本人である事を悔やみ「中華の人間として生れたかった」と漏らした記録が後世に伝わる。朝鮮語通詞養成所を対馬府中に創設。明治期まで多くの名通詞を輩出させるこの学校では,当時軽視されていたハングルで書かれた小説を教材に用いるなど、芳洲独自の教育理念・方法が貫かれていた。
 盧泰愚大統領の言葉は芳洲のその内容はこの交隣提醒によっていて「朝鮮の風俗・習慣をよく理解し、違いを尊重して外交に当たるべきことを事例を挙げて説き、偏見や蔑視を抱いてはならないと強く主張している。また『誠信の交わり』については、互いに欺かず、争わず、真実をもって交わることこそ、まことの誠信である」との内容を踏まえている。

 列島に人間が住み着いて以来、半島と列島の間で人の交流が続いてきた。歴史家にいわせると戦い・争いも交流の一環ということだが、歴史の節目節目にはとてつもない戦いが行われる。白村江・元寇・秀吉の侵略・明治以降の侵略支配、その間に元寇に対する復習から始まったといわれる倭寇等にはじまり、再び緊張が高まりつつある現在、日本・韓国・中国の政治家に求められるのはこの芳洲の言葉かもしれない。芳洲は朝鮮通信使の儀礼についての日本側の傲慢に近い変更要求(新井白石発案)に朝鮮側との折衝に苦心しながら対応している。
 私などこの言葉に大いに惹かれる。国という思想上の足かせとも言える概念に振り回される昨今、本当の意味での国際化が必要なのだが、大いに噛み締めたいと思う言葉だ。
厳原町もこの人の顕彰に力を入れているようだ。小学校の通学路に横断防止策にこの人の言葉を鋳物にして掲げている。小学生にはとても難しい言葉が並ぶが、馴染むことはいいことだ。
 お墓はこの小学校の傍の長寿院というお寺にある。境内を登っていった竹やぶの中にひっそりと静かに建っている。人柄のように静かに周囲の竹林の雰囲気にぴったりと沿うように建っている。とてもいいところだ。訪れて良かったと思っている。

   

 このほか、対馬班の御用船のドック兼桟橋ともいえる「お船江跡」も見学した。明治はじめの頃の写真も案内に表示されており、当時の港のようすもわかるように公園として整備され興味深かった。
 しかし今回の訪問では、対馬の最高峰である矢立山(649m)に登ることが出来なかった。さらに下対馬だけを回ったことになり、上対馬については足を踏み入れなかった。また浅茅湾の美しい景色も城山から眺めただけで、逆に海岸から金田城を眺めることも敵なかった。さらに最北部の比田勝港も訪れることが出来なかった。 訪れる機会がもし人生の中で残されているとしたら、是非とも訪れてみたいものである。



対馬の印象(2)

2013年06月17日 12時29分42秒 | 山行・旅行・散策
               

 二日目、とりあえず行きたいと思っていた金田城(かねだのき)跡を目指して、空港に戻ってからタクシーで登山口まで。城山(じょうやま、276m)の北部東面全体を石垣で囲んだ金田城は想像以上の広大な山城であった。頂上からは西にリアス式海岸の美しい浅茅(あそう)湾を望めるのだが、この頂上の尾根から東の奥まった湾までを囲むように石垣が巡っている。唐と新羅の連合軍が日本に押し寄せるという危機感から、東国より防人を大量に動員して築いた城のひとつなのだろうが、どうも私にはこの城の目的とするところが今ひとつわからなかった。
 朝鮮半島から軍が押し寄せるとして、防備が調っていることの誇示ならば朝鮮半島を臨むことの出来る西の浅茅湾に向かって石垣を作ればいいはずだ。頂上の稜線に延々と続く石垣が残っており、樹林帯に隠れるように作ったのか、頂上の樹林を切って海から石垣が見えるようにしたのかは不明だ。しかし東斜面を海まで続く石垣は、その囲いの中に多くの兵を駐屯させ、海からの補給と出兵を可能にした砦という見方も出来る。軍事の知識がないだけに私にはわからないのでここら辺の解明も欲しいところ。しかもこの地点が他の地点と較べてどうして城の適地なのか、これも私にはよくわからない。
 残された石垣の規模はとてつもない規模であるし、また積み上げ方も整然としてはいないのだがそれでも念入りな計画とくずれにくい積み方を熟知した時つに計画的なものであると素人の私にも直感できる。戦国時代の石垣のように隙間なく寸部の狂いもなく、というわけではなく対馬特有の頁岩の石の形をうまく利用した摘み方でかなり短期間で積み上げたと思われる。しかし今まで残っているのだから念入りな摘み方であることは間違いはない。そのエネルギーに圧倒された。
 しかし百済という交流のあった国の滅亡に対応する方法として援軍の出兵という方法もあるのだろうが、またそのことによって大量の百済の人々が先進の文化を携えてきてくれたおかげで日本の古代国家の成立に大きく寄与してくれたことは充分理解できるが、国際感覚、戦いを避ける方途の模索という点ではこの出兵という選択は正しかったのだろうか。
 白村江の戦いというのがあったとして、今でいえばそれは朝鮮の人々にとっては侵略になる。当然防衛の意識は高く、政策の選択としては決していいものではない。しかも敗戦で大量の人的・物的損害を出した上に、防衛のために防人というとてつもない人員の投入に費やした労力、民の疲弊、国力の投入は決して望ましい選択ではなかったはずだ。現にそれにより壬申の乱が勃発しこの介入戦争を主導した政権は倒された。当時の倭という未熟な国家の国際感覚の欠如が招いた悲劇である。
 戦さというのは国を傾ける大きな原因なのだ。政権を担う人々に選択を誤ることは許されない。戦さは選択としては決してベストでもベターでもない、避けられるだけ避けたうえでの止むを得ざる選択でしかないことを肝に銘じなくてはならないと思う。

   

 この金田城の頂上には日露戦争による対馬要塞化の一環として砲台が築かれた。対馬全体が砲台要塞化の中で島内のあちこちに砲台遺跡が残っている。ここの頂上に西側の朝鮮半島に向けて砲台が据えられた。そこに向かう軍道がつくられている。明治の近代軍備であるが、その廃れた遺構は古代の遺構よりもとても虚しく、脆いものに感じられる。しかも威力は数百倍はあるだろうが、古代の城砦よりも城砦の規模としては小さい。
 日本の古代国家の成り立ちの頃の失敗と、近代国家の成り立ちの頃の選択の過ちの象徴のような遺跡が重なって存在している。感慨深い遺跡だ。対馬自体がさらに近世の中央集権国家の成立に際しての朝鮮への侵略という誤った選択の前線基地でもあった。政治体制の選択の誤りのたびにここの地がクローズアップされる。今もこの地は緊張が押し寄せてきている。
 この金田城の復元発掘はよくできていると思う。説明板も完備され、説明も詳しい。だが、残念ながらここを訪れる人は極めて少ないようだ。私も2時間半かけて一周したが誰にも合わなかった。それゆえか道が荒れていて迷い易い。実にもったいない。これだけ遺跡の復元と説明板設置に費やした労力を生かさなければならないと感じた。戦さというものを実感できる数少ない遺跡である。沖縄も広島もつい最近の戦争の悲惨さを実感させてくれる貴重な場所である。ここもそんなことに思いをはせさせてくれるとても大切な遺跡だと思う。

            

 タクシーの運転手のアドバイスで、午後からこの近くの白嶽(しらたけ、519m)に登っても夕方には登山口に戻ることができることを知った。タクシーでスーパーのあるところまで一端もどりパンと飲料水を購入して登山口へ。13時半に出発して16時に戻ることが出来た。タクシーはメーターを止めて待っていてくれた。
 この白嶽、対馬の最高峰ではないが白い大きな岩が双耳峰として特異な形を見せている。地元の古くからの信仰の山として大切にされている。沢沿いの道から出発してなだらかな道から始まる。頂上までや約1.95キロの表示がありパンを食べながらハイスピードで登った。羊歯の若葉の緑がとても美しい。午前中の金田城での2時間でそれなりに疲れていたが、快調である。
 しかし白嶽神社を過ぎると途端に登山道はきつくなってくる。この白嶽神社の鳥居には赤と白の大きな布が縛り付けられている。始めて見る習俗だと思った。さらにあと400mの標識では、頂上までの高度さも160mとある。これはかなりの急登と推察したとおりロープが張られなかなかののぼりだ。水天宮のあたりから深い樹林に囲まれているが本格的な岩稜帯。
 「あと105m」の地点からはスリル満点の大きな岩との格闘。首から提げているカメラは邪魔なのでリュックにしまう。道の東側が鋭く切れ落ちて怖いこと。これは山慣れていないと厳しい。さいわい雨にはならなかったが風出てきて頂上からの戻りはとても怖かった。休むこともなくひたすらもと来た道をもどり16時にタクシーの待つ登山口に到着。コースタイム3時間半を2時間半で終わらせることが出来た。登山口に近い沢で上半身裸になり汗を拭いようやく一心地つくことが出来た。500m級の山と侮ってはいけない。スリル満点の頂上であった。

 この白嶽に登って私は「やはり私の旅行のスタイルにはこの登山を抜きにしてはいけないのだ」とあらためて感じた。その土地土地の最高峰に登り、人々の生活や信仰のよりどころに登るということを忘れてはいけない。その土地に対する敬意というものだ。そして心地良い疲労感がうれしい。壱岐に行ったら低いとはいえ「岳の辻」に登らないとまずい、と決意をした。

これは大変なことに‥

2013年06月17日 01時02分43秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 先ほど今回の旅行の印象の第一回目をアップし終えたが、これを最後まで続けるとこれは大変な作業量になる。
 ちょっとあせっている。

 旅行で経験したことをまとめたいという気持ちもまだ強い。資料の準備等で時間がつぶれたから明日からは多少は楽になるが‥。続けられるだろうか、少々心もとない。対馬をあと1回、壱岐を2回、九州国立博物館等で1回位を頭の中に思い描いている。果たしてそのとおりにできるだろうか。

 まぁ義務ではないから途中でお手上げになっても、怒りのコメントは無しにして欲しいと、願うしかない。
 本日も一日外出の予定はないので、対馬は何とか本日中に終わりそう。明日・明後日が、退職者会の幹事会、講座で午後がうまっている。午前中にアップできるだけのゆとりがあればうれしいのだが‥。明々後日も友人に会う予定。

 実は先ほど計算したら、この旅行中7日間で合計214,515歩も歩いている。一日平均30,645歩となった。毎日平均20キロメートル、7日で140キロメートル歩いたことになる。これはさすがに後から効いてくる。江戸時代の旅人はもっと歩いたそうだから、自慢にしてはいけないが、自分なりには「よしよし」という気持ちである。
 昨日は腰から下が何となく筋肉痛。といってもつらい筋肉痛ではなく、何となくだるいという感じに近い。昨晩は寝ながら足を勝手に屈伸していたようだ。足を少し上げて寝るために厚めの座布団を二つ折りにして踵を乗せて寝ているが、その座布団を足元にベッドから蹴落としていた。昨日今日はまったくの休養日にしたい。

 購入した焼酎とぐい呑みの使用は、まだだ。これは明後日以降になりそう。心ははやっても、まずは今飲んでいる焼酎を空にしてから出ないと、新規開封のお許しが出ない。
 とりあえず、ぐい呑みの写真は掲載しておこう。2625円の割には立派な箱に入っていてちゃんと作者名も入っている。