朝からの腰痛、ぎっくり腰のような症状はだんだんつらくなってきた。本日は病院、薬局、いつもの喫茶店にて読書タイム。バスにて帰宅。ゆっくりと歩いて歩数計は5千歩未満。
しかしだんだん腰の痛みがひどくなり、夕食時にはとうとう痛み止めを服用し、腰を曲げて壁に手をついて食卓に辿り着いた。
パソコンを前にして作業をしていても、お茶を飲みに立つことも時間がかかった。
これより入浴。浴槽の中に入ることができるか、心もとない。
朝からの腰痛、ぎっくり腰のような症状はだんだんつらくなってきた。本日は病院、薬局、いつもの喫茶店にて読書タイム。バスにて帰宅。ゆっくりと歩いて歩数計は5千歩未満。
しかしだんだん腰の痛みがひどくなり、夕食時にはとうとう痛み止めを服用し、腰を曲げて壁に手をついて食卓に辿り着いた。
パソコンを前にして作業をしていても、お茶を飲みに立つことも時間がかかった。
これより入浴。浴槽の中に入ることができるか、心もとない。
午後眼科で親の点眼薬の処方をしてもらった。私は受診をして薬の処方箋をもらおうと思っていたが、本日は代診の医師ということで、受診は遠慮した。明日の午前中に再訪してみたい。どうもこの代診の医師とは私は反りが合わない。
薬局で目薬を処方してもらっている間にバスが2本も出て行った。会計が終わってからバスにていつもの喫茶店へ。昨晩の予定通り「永瀬清子詩集」の「自筆年譜」を読み終わった。さらに「短章」からまず読み終わろうということで「短章」の「諸国の天女」から読み始めた。
「所謂純粋な「詩」以外のものを取り入れ」ることで、無限による「詩の題材」を書き続けていくこを願い、そのように書き続ける短章を「私の詩精神と切り離すべきではない」と、詩作において重要な位置にあることを述べている。永瀬清子は、詩・短章・散文の書き分けを「内面のリズムに従って書く時、「詩」「短編」と考え、「散文」というのはその事よりも、伝えたい事、聞いてほしい事実、にウェートがかか、つまりはリズムの力をアテにしていません。」と意識している。」(《研究ノート》(白根直子))
ということで、短章集「諸国の天女」(1940年刊)をまず読み終えた。そのなかから、1編。
あたらしいと云うこと
あたらしいと云うことは
それも一つの値打ちである。
が、人が思うほどやさしてことではない。
すぐふるくなるようなあたらしさはなまぐさい。
そんなあたらしさはよい作品の理想にならない。
あたらしいと云うことは
読者の予想のとても不可能なくらいのものが
その詩のなかにつまっていることだ。
雨が霽(は)れて樹木がキラキラと金の葉うらをみせるように。
最近少し歩きすぎたかと反省していたら、本日は朝から腰痛。この1週間、歩数計は1日平均9千歩を越えていた。ひと月で28万歩を越える。今月の目標を25万歩としていた。調子がいいので、気持ちよくウォーキングをやり過ぎた感がある。
本日は休息日ならぬ休足日としないと、ぎっくり腰が再発しそうな気配である。起床してから、クシャミや咳をするときは、手を頑丈なものを握って腰に負担がかからないようにしている。
午前中から「永瀬清子詩集」(岩波文庫)を読んでいる。永瀬清子の詩を読む前に「はしがき」(谷川俊太郎)、《研究ノート》(白根直子)、「永瀬清子自筆年譜」を再度読み直している。
「詩」というものを読む前に、永瀬清子という詩人のことを知らないので、まずはどんな人生とどんな作品を作り上げたかの下調べをしたかった。
この文庫本を購入したときにすでに一度目をとおしているが、忘れていることも忘れていることもたくさんあると思い、読み直した。
これより親のかかりつけ医で薬の処方箋をもらい、私のかかりつけの眼科で点眼薬の商法戦を貰いに行く。腰の状態が悪くないようならば、歩く距離が最短の近くの喫茶店で「永瀬清子詩集」でも読んでみたい。
フラワー緑道のヨコハマヒザクラの状態を知りたいのだが、本日は我慢である。