台風の雨などに翻弄されながらも、少し気温が下がり、読書も少しずつ進めている。
「失敗から学んで他の方法を探ろうとはせず、頑固に同じことを繰り返していたのでは進歩は内ではないか、非難もされるだろう。・・・・日常生活の基本にあるは同じことの繰り返しである。若い日にはその繰り返しの中から学習や進歩が生まれることもあるだろう。老年の繰り返しの中に隠れているのは、確認や瞬間の充実である。」(一つ拾い、一つこぼす)
「老いてからの誕生日は過去を振り返り、自らの生の輪郭を再確認しつつ、これまでの上に更に一年を重ねようとする覚悟の日であるにちがいない。老いたる一年は、時の流れの澱んだ淵に近いものかもしれない。・・・老いてからの一年は、時間の中に命の影を覗き込もうとするような静けさをはらんでいる。」(齢重ねての誕生日)
「人が老いていくことを自然であると認め、その時間を共有してくれる人間が周囲にいてくれる時にのみ、老人は〈老い心地〉を満喫出来るに違いない。」(老い心地)
「威厳にせよ貫禄にせよ、温容にせよ枯淡にせよ、老人にふさわしい生の佇まいはそのような認識(古稀、喜寿、傘寿などといった年齢の節目に宿った認識)を基礎にして保たれて来たのだろう。ただ年齢不詳の元気な老人がふえただけでは、老いが豊かになとるはとても思えない。」(年齢の節目が消えた)
「心と身体は結びついているのだから、お互いを別のものとして分けて扱うのには無理があるのかもしれない。心と身体とは、いずれがより老いやすいのか、あるいは、心の老いと身体の老いとは、どこがどのように違うのか。・・・身体の力が体力であるとしたら心の力は気力なのかもしれないが、気力測定という検査のことは聞かない。・・・「年を重ねて身体が衰えていくのは仕方がないけれども、精神だけはいつでも若くしなやかに保ちたい」という身上には共感は覚えたが、人間の心と身体とをはっきり二つに分けて対応することが果たして可能か。・・・身体の健康に与える精神の力は決して軽視できない。(しかし)気力を維持して暮せば老いは容易に近づかない、と言えるのだろうか。・・・老いを拒み排斥しようとするのではなく、生命の自然としてそれを受け入れようとする立場もある。老いる気力である。」(老いを受け入れる気力)
実はこの最後の引用をした「老いを受け入れる気力」の冒頭で私は考え込んでしまった。身体と心は結びついている、ということを「当然」とすることにまずは疑問を持って考えたことがなかった。
現在の極端な「健康志向」の風潮の中で、果たして身体能力だけ健康な人が増えるのが「健康な社会」なのだろうか、というのは常日頃コマーシャルを見るたびに思うところである。身体的な老いを拒否するだけが目的の「生」が垣間見える。「老い」を受け入れる「生」の豊かさがすっぽりと抜け落ちている気がしてならない。
社会や家族の中で「老人」のあり様が定まっていない。自らの立ち位置が定まらない年代に私も足を大きく踏み込んでいる。
心と身体の極端なアンバランスが現代の社会の実相に近いのだろうか。この引用部分の前に引用した「年齢の節目が消えた」に繋がる。「老人らしい老人」を拒否し続けてきたと云われる「団塊の世代」がすっぽりと抜け落ちた日本の社会は「荒野」なのだろうか。「荒野」と思うこと自体が「威厳・貫禄・温容・枯淡」とはほど遠い「老害」であるとも云われる。