蛙声(あせい)
天は地を蓋(おほ)ひ、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。
その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く‥‥‥
--あれは、何を鳴いているであらう?
その声は、空より来り、
空へと去るのであらう?
天は地を蓋ひ、
そして蛙声は水面に走る。
よし此の地方(くに)が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶、余りに乾いたものと感(おも)はれ、
頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走って暗雲に迫る。
これは最後の詩集『在りし日の歌』(亡くなる一か月前の9月に小林秀雄に原稿が託され、翌年刊行)の最後に掲載された詩。7月発行の雑誌に発表された生前最後の詩でもある。8月には心身の衰弱が激しく、妻子と帰郷する決意したが、かなわず10月に入院し、22日永眠した。
年譜と対照してこの詩を読むと、蛙の声は死への誘いのように聞こえてくる。蛙の声が「空より来り、空へ去る」はこの意であろう。ふと力を抜くとそのまま無意識の闇へ誘われるギリギリのところで心身の衰弱と格闘していたのかと想像する。
「転」にあたる第4連、望郷の念の理由として「此の地方が湿潤すぎる」ことが挙げられる。「疲れた我等が心」は、都会での交友関係の濃密さと、その引き受けた関係のキツさに押しつぶされた詩人の心を指すのであろう。「湿潤」はこの関係のキツさの比喩と思われる。
人との関係がべとつくように自分の肌に纏わりつく感覚、これを多くの人はどこかでうまく処理し、シャワーで洗い流すようにしながら生きていくことを強いられている。しかしこの術がうまく働かなくなった時、人は立ち往生し、闇の中の手探りに膨大なエネルギーをむなしく費やす。この術をうまくコントロールしている働きを、人は10代半ばまでという短い時間の中で獲得しなくてはいけない。この術は時間をかけて醸成しないと、成熟した術にはならない、と断言することは出来ないか。早すぎる才気にはそれが後追いとなってしまう悲劇がまとわりつく。この術は親からのアドバイスや公教育で獲得できるものではない。10代の内の自らの格闘でしか身につかないと、私は実感してきた。自らの内部での自問自答、社会体験の中で醸成するしかない。多分、中原中也という個性は、このことに私などよりはより繊細で、より真摯に悩んだのではないか。だからこそ詩人という資質に磨きがかかったといえる。
30歳という若さで燃焼してしまう才気、文学の友人関係は自ら進んで極めて濃密さを求めたのではないか。そしてその処理の過程で心身に影響が出てしまった、と推察している。多くの友人がその死と詩を悼んだのはその証である。自ら求めた濃密な人間関係を、繊細にコントロールする術を失いながらも、なおその関係から離れることのできずに求めて彷徨する。そんな姿を中原中也の「晩年」に見ることが出来る。
周囲には濃密な関係を求めつつ、その関係になかなか癒されることのない繊細な心は「柱」を「乾いたもの」と見てしまう。湿潤ならば木の柱にも湿気を嗅ぎ分け、湿気を感じ取る心性もあるはずだが、この作者は「乾いた」と体感する。
自己の心性と、周囲との関係が分離し、自分から遊離していく。自己の統御が不可能になって、外界と内部が互いに関係を失って並行して時が流れる。それをまた統御不能として眺めるだけでしかない自己をこの詩は示しているようだ。
天は地を蓋(おほ)ひ、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。
その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く‥‥‥
--あれは、何を鳴いているであらう?
その声は、空より来り、
空へと去るのであらう?
天は地を蓋ひ、
そして蛙声は水面に走る。
よし此の地方(くに)が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶、余りに乾いたものと感(おも)はれ、
頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走って暗雲に迫る。
これは最後の詩集『在りし日の歌』(亡くなる一か月前の9月に小林秀雄に原稿が託され、翌年刊行)の最後に掲載された詩。7月発行の雑誌に発表された生前最後の詩でもある。8月には心身の衰弱が激しく、妻子と帰郷する決意したが、かなわず10月に入院し、22日永眠した。
年譜と対照してこの詩を読むと、蛙の声は死への誘いのように聞こえてくる。蛙の声が「空より来り、空へ去る」はこの意であろう。ふと力を抜くとそのまま無意識の闇へ誘われるギリギリのところで心身の衰弱と格闘していたのかと想像する。
「転」にあたる第4連、望郷の念の理由として「此の地方が湿潤すぎる」ことが挙げられる。「疲れた我等が心」は、都会での交友関係の濃密さと、その引き受けた関係のキツさに押しつぶされた詩人の心を指すのであろう。「湿潤」はこの関係のキツさの比喩と思われる。
人との関係がべとつくように自分の肌に纏わりつく感覚、これを多くの人はどこかでうまく処理し、シャワーで洗い流すようにしながら生きていくことを強いられている。しかしこの術がうまく働かなくなった時、人は立ち往生し、闇の中の手探りに膨大なエネルギーをむなしく費やす。この術をうまくコントロールしている働きを、人は10代半ばまでという短い時間の中で獲得しなくてはいけない。この術は時間をかけて醸成しないと、成熟した術にはならない、と断言することは出来ないか。早すぎる才気にはそれが後追いとなってしまう悲劇がまとわりつく。この術は親からのアドバイスや公教育で獲得できるものではない。10代の内の自らの格闘でしか身につかないと、私は実感してきた。自らの内部での自問自答、社会体験の中で醸成するしかない。多分、中原中也という個性は、このことに私などよりはより繊細で、より真摯に悩んだのではないか。だからこそ詩人という資質に磨きがかかったといえる。
30歳という若さで燃焼してしまう才気、文学の友人関係は自ら進んで極めて濃密さを求めたのではないか。そしてその処理の過程で心身に影響が出てしまった、と推察している。多くの友人がその死と詩を悼んだのはその証である。自ら求めた濃密な人間関係を、繊細にコントロールする術を失いながらも、なおその関係から離れることのできずに求めて彷徨する。そんな姿を中原中也の「晩年」に見ることが出来る。
周囲には濃密な関係を求めつつ、その関係になかなか癒されることのない繊細な心は「柱」を「乾いたもの」と見てしまう。湿潤ならば木の柱にも湿気を嗅ぎ分け、湿気を感じ取る心性もあるはずだが、この作者は「乾いた」と体感する。
自己の心性と、周囲との関係が分離し、自分から遊離していく。自己の統御が不可能になって、外界と内部が互いに関係を失って並行して時が流れる。それをまた統御不能として眺めるだけでしかない自己をこの詩は示しているようだ。
中也が、あと、5,6年切り抜けていたら、ごく普通の親父になって長生きできたかも、と、思うが、やはりそういう人ではなかったか‥難しい
文学仲間、文士仲間という人間関係の濃密さは、刺激にもなり、励みにもなり、やがて神経を逆なでるものでもあったのでしょうか?
阿佐ヶ谷文士には佐藤春夫、堀口大学、井伏鱒二、木山捷平、などがいましたが、その中で木山捷平の文が井伏鱒二の文に似ていると悪口が広がったことがありました。
その時、井伏鱒二が書いた歌。
「捷平と血族をあらそう春の宵 弟たりがたく 兄たりがたし」と色紙に記したのは井伏鱒二の優しさであり、思いやりであり、つまらない噂に配慮した歌でした。
中也が交友関係の濃密さに駆逐されたとしたら、井伏鱒二の様な人がフォローしてくれたらこうまでも傷つくことがなかったかもしれませんね。
詩人の玻璃のような繊細さゆえの苦しみを想うと求めるものと与うべくものとの齟齬の不幸をおもいます。
10月に亡くなった直後の翌1月に次男の愛雅(よしまさ)が1歳2カ月で亡くなっています。生きていたら悲嘆はとても激しかったと思います。それを思うと何とも言えないかもしれません。
人生に「もし‥」はないとは云え、難しいですね。
濃密であればあるほど、刺激・励みから逆なで・非和解的な罵詈雑言に至ると思います。
どこかの時点で、お互いに冷静になり、別個の道を歩いたのち、心にゆとりをもって振り替えられる関係が理想かもしれません。
亡くなる年に現鎌倉市に居を構えましたが、中也が訪れて回った友人は、小林秀雄、大岡昇平、今日出海だったとのこと。今日出海のことは知りませんが、井伏鱒二のようなある意味懐が深いというか、「オヤジ」タイプの方々ではなかったようですね。
またそのような方とは交友が成立しなかったかもしれないという風にも思えます。