昨日「美術の愉しみ方 「好きを見つける」から「判る判らない」まで」(山梨俊夫、中公新書)を読み終えた。
「自らの内的対話で作品をつくる作家たちの創造行為は、どちらかと言えば閉鎖的で、内向的である。もちろん作品を通して作家の思考は外に向かって常に発信を続ける。それが根幹であることにかわりはない。けれど自己意識へのこだわりを捨て、人々との直接的なつながりや反応に自分の表現や想像の実体を見出していく方向が回さ託された。そのことが美術の変質の大きな原因となっている。そういう方向に美術全般が舵を切ったわけではない。・・美術の範囲が広がった。人は誰でも創造性をもっており、芸術家になれる。ただし(彼等は)私たちが思い描く芸術作品を作る人ではない。自分創造性を発揮して社会に参加していくことを意味する。」(第6章)
長々と引用したが、私は現代美術への視点として作者の「普遍性への断念」と感じている。「普遍性」をそもそも信じていない作者がいて、孤立感が制御不能にまで肥大化している。だから鑑賞者や見学者の参加を求めて、普遍性の代償、孤立感の解消に向かわざるを得ないのではないか。ここに自覚的な作者が、新しい時代を切り開く準備をしていると思いたい。そういう私の視点とどういう風にこの作者の指摘が絡まっているのか、考えてみたい。
「画家であるからこそ、自分の方法に安定を得ていて、それを搔き乱す新しい方法は認めがたくなる。その波紋は、美術を見る側にも広がり、安定した慣習を破る新しい絵は評価されにくく、冷遇される。」(第7章)
「(マルセル・デュシャンの《泉》は)美術作品を創作するひつような手業を拒否している。これが美術となるのは、・・・美術の場に置かれているから美術作品になる。美術なのかどうかは、作品自体の外観や形状からだけで決まるのではない。それがどういう場にあり、どう扱われているかに大きく左右される。作者はそれを逆手に取って、美術でないものを美術にしてしまうのである。その仕掛けそのものが、美術なのである。展覧会に出品されている、美術館の展示室に置かれる、画集に出ている。そういう美術のための場が、美術作品を作っている。」(第7章)
「肝要なのは、柔らかい中心軸を持つことである。自分の基準に縋りつくのではなく、右往左往を愉しみながらゆったりした構えを持つことが、判らないと感じた美術を近しいものに変えていく。」(第7章)