老子の第76章。「人は生きているときは柔らかくしなやかであるが、死んだときは堅く強張っている。草や木など一切のものは生きている時は柔らかくてみずみずしいが、死んだときは枯れて堅くなる。・・・武器は堅ければ相手に勝てず、・・・強くて大きなものは下位になり、柔らかくてしなやかなものは上位になる。」(蜂屋邦夫訳、岩波文庫)とある。
保立道久訳では「人が生まれたときは柔らかく弱々しいが、死ねば筋肉と靭帯が硬直する。草木が生えるときは柔らかでなよなよしているが、死ぬと枯れてかさかさになる。・・・兵が強くとも勝ち続けることはできない。・・・強大なものは地下にいき、柔弱なものが地上に生き残る」(ちくま新書)と訳されている。
ここに加島祥造の「タオ 老子」(ちくま文庫)がある。最近購入してみた。この76章では次のように「意訳」している。
「剣もただ固く鍛えたものは、折れやすい。/木も堅くつっ立つものは、風で折れる。/元来、強くこわばったものは/下にいて、/しなやかで柔らかで/弱くて繊細なものこそ/上の位置にいて/花を咲かせるべきなのだ。」としている。
人は他者の意見を聞くときに、自分の意見というフィルターを通して聞く。特に意見の違いが大きいと思われる人の意見に対するときはそのフィルターは、ほとんど閉ざされてしまい、堅い壁のようになる。
人の意見を聞くときは、特に異なる意見や文句をいう人に対するときこそ、まずは意見を十分に聞くゆとりを自分に持たせたい。常にそれが出来たとは言えないが、心掛けてはきた。
相手の意見は、同意する箇所からまず整理する。その次に異なる部分を整理する。さらにその意見の基本となっている部分を想定してみる。
反論するときは、同意意見から述べ、相手の意見の基本を確認する。自分の意見と異なる部分は最後に述べる。こうすれば対話となって議論ができる。
自分で練り上げていない意見は、他人の思想や意見の借り物でしかない。それは剛直で柔軟性がない。一見強大で強く見えても、応用力はない。そして権力者にすり寄る政治家や組織に寄りかかる政治家に見られる論理性のない人は、一方的で強引にものごとを進めて異論を認めない。そういう人に、多くの人は沈黙してしまう。
一方で私たちの仲間内にも人の意見を聞くことが不得手な人はいる。ちょっとでも違う意見を聞くと、端から否定することから対話を始めようとする。人の意見を最後まで聞こうとしない。意見を抑圧されてきたものほど、その傾向があるのかもしれない。
少数意見として抑圧されてきたものほど、したたかで柔軟な思考力を身につけて欲しいのだが。
しなやかで、したたかで、繊細で、柔軟な思想こそが生き残る。そういう思考を私たちは身につけたいものである。老子の言葉では、世の中の上・下という概念だが、時間軸でものごとを判断したい。