「定家明月記私抄」は本日までに10の節を読み終わった。
「夢の浮橋」、「連夜寒風。衰齢卅八」、「明年革命、已二以テ眼ル在ルカ」、「天下の事、不思議多シ」、「家鶏官班ノ冷キヲ識ラズ」、「道ノタメ面目幽玄ナリ」、「後鳥羽院・大遊戯人間」、「熊野御幸」、「河陽ノ歓娯、休日無シ」、「簫瑟ノ景気ヲ望ミ、独リ感ジ思フ」と10の節の名を列挙するのは、骨が折れる。
ほとんど「明月記」の原文の表記の難しさ、読み下し文の読みにくさを示している。原文はもとより読むことは難しくとも、その読み下し文くらいならという気持ちをも打ち砕いてしまうことが容易に想像される。
「生活を維持していくについて、収入の方は‥ほとんど荘園からだけでありまことに簡単明瞭、‥地頭の強暴によっておびやかされているとなれば、革命ということばが口の端に上って来るのも無理からぬ次第であり、‥未来は暗澹たるものである。もうひとつ母の死がある。‥継母が体て、俊成からの補助もえがたくなって‥。しかし俊成の後継者としての体面、地位の問題があり、まして宮廷歌人としてあらねばならぬとなれば、何としても京にかじりついていなければならぬ。‥この体面の問題が、彼の生涯における心の刺であり、と同時に生き甲斐そのものでもあった。人は虚栄心だけをバネにしてでも生きて行くものであった。」(「明年革命‥」)
「“梅の花にほひをうつす袖のうへにのきもる月の影ぞらそふ”(定家、新古今)。「袖のうへ」という、ただそれだけの極小宇宙のなかでの感覚の漂移が主題であり、全内容でもある。‥要するにつくるためにつくられたフィクションなのであるから、そのフィクションの精度が問題になる。‥鑑賞に際しては、読む側にもかなりに繊細な感性を必要とする。‥作家態度そのものが、実に天皇制度というものとびったりと重なったものとして見えて来る‥。前者はつくるためにつくり、つくられ、後者は存在し、かつ存続するためだけに存続している。歴史としては過去と現在だけしかなく、それ自体としての未来の展望はない。」(「道ノタメ面目幽玄ナリ」)
「定家の側において先に彼女(式子内親王)を失ってはじめて伝説は成立する。“ながめつるけふは昔になりぬとも軒ばの梅はわれを忘るな”(式子内親王)。源氏物語に象徴される一文化、あるいは文明の終焉をこの式子内親王の死に見ることも可能なのかもしれない。」(「後鳥羽院・大遊戯人間」)
「(後鳥羽)院は実際に主催者としても実践者としても、競馬、相撲、蹴鞠、闘鶏、囲碁、双六、それから何軒もの別邸と庭園の建造等々、何をさせても、いわばルネサンス人的な幅を持っていて、京都宮廷などというせせこましいところに閉じ込めておくのが惜しいくらいのものであった。のちには承久の乱という戦争までを発起する。」(「後鳥羽院・大遊戯人間」)
「“白妙の袖の別れに露落ちて身にしむ色の秋風ぞ吹く(定家)”“面影の霞める月ぞ宿りける春や昔の袖の涙に(俊成卿女)”。言語を駆使しての芸が、かくも過度かつ極度なところにまで達し得ることが出来た例は、他に求めることが出来ない。これらに比べればフランスの象徴派なども、もっと日常に近いのである。」(「河陽ノ歓娯‥」)
堀田善衛は、式子内親王の歌に古代平安時代の文学の終焉と、定家に中世鎌倉時代の文学の画期を見ていることが分かる。
そして後鳥羽院の世が、世界史的な視点で同時代的な位置づけをしようとしていることが明らかである。ルネサンス的な人物という視点を取り入れようとしてる。これについては再度触れてみたい。