午後眼科で親の点眼薬の処方をしてもらった。私は受診をして薬の処方箋をもらおうと思っていたが、本日は代診の医師ということで、受診は遠慮した。明日の午前中に再訪してみたい。どうもこの代診の医師とは私は反りが合わない。
薬局で目薬を処方してもらっている間にバスが2本も出て行った。会計が終わってからバスにていつもの喫茶店へ。昨晩の予定通り「永瀬清子詩集」の「自筆年譜」を読み終わった。さらに「短章」からまず読み終わろうということで「短章」の「諸国の天女」から読み始めた。
「所謂純粋な「詩」以外のものを取り入れ」ることで、無限による「詩の題材」を書き続けていくこを願い、そのように書き続ける短章を「私の詩精神と切り離すべきではない」と、詩作において重要な位置にあることを述べている。永瀬清子は、詩・短章・散文の書き分けを「内面のリズムに従って書く時、「詩」「短編」と考え、「散文」というのはその事よりも、伝えたい事、聞いてほしい事実、にウェートがかか、つまりはリズムの力をアテにしていません。」と意識している。」(《研究ノート》(白根直子))
ということで、短章集「諸国の天女」(1940年刊)をまず読み終えた。そのなかから、1編。
あたらしいと云うこと
あたらしいと云うことは
それも一つの値打ちである。
が、人が思うほどやさしてことではない。
すぐふるくなるようなあたらしさはなまぐさい。
そんなあたらしさはよい作品の理想にならない。
あたらしいと云うことは
読者の予想のとても不可能なくらいのものが
その詩のなかにつまっていることだ。
雨が霽(は)れて樹木がキラキラと金の葉うらをみせるように。