★職なくて実桜のもと握り飯 庄司 猛
★見上げれば揺れはそれぞれ桜の実 々
近くの私鉄の駅と駅の間に細長い公園がある。鉄道が地下化されたのに伴い、以前の鉄道敷が公園として整備され、四季折々にさまざまな花が咲くようになった。
公園のベンチの昼時には、近くの職場の勤め人やら、近所のお年寄りの憩いの場となる。年寄りも、現役の勤め人も弁当を広げたり、近くの店で購入したものをのんびりと口にする。
私も退職した直後の数か月、お握りを持参したり購入したりして、ベンチでのんびり桜の木の葉越しに青い空を見上げるのが楽しみであった。仕事から離れたくて退職後の再雇用は辞退し、「さて何をするか」と考えていた。
高齢者ばかりか、若い現役の年代の人もいったん職を離れると再就職が厳しいのは、いつの時代でも同じ。そういう風に厳しい局面で公園のベンチで時間を過ごす人も多い。私などのようにちょっとだけゆとりをもって握り飯を口にする人もいる。若く明るい声を立てている人もいる。赤子の乳母車を押す母親もいる。
生活の実態はさまざまでも、この昼時のひとときははた目から見れば各自平等である。胃を満たす行為と、目に映る桜の実の光景は同じ。しかし各自の内面も、振る舞いもそれぞれの超し方を反映している。
桜の実に注目するようになったのは、そんな時期であった。そして桜の実のほとんどは熟して地面に落ちることはない。たいていは落ちる前に鳥がありがたくいただいてしまう。種は鳥の糞として地面に落ちる。