朝からチャイコフスキーの交響曲第5番を聴いている。作曲されたのは1888年。第6番悲愴とおなじくスヴェトラーノフ指揮のソビエト国立交響楽団の演奏、1990年の東京での演奏会のライブ録音である。
20代のころ、このチャイコフスキーの第5番とベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲ばかりを聴いていた時期がある。
チャイコフスキーのこの5番は特に第1から第3楽章までを好んだ。第1楽章の付点四分音符と十六分音符で始まるクラリネットの序奏が耳から離れないどころか、脳内を響き続けていた。第1~第3楽章まで、いつも暗い押しつぶされた情念が浮かび上がろうとしてまた海のそこに引きづりこまれるように沈殿していく音の響きが私を捉えて離さなかった。
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は序奏の四分音符4つの音で始まり、ヴァイオリンソロが出てくるまでに明るさに解決を求めていくが、チャイコフスキーは第3楽章まで引きづる。
第1、第2楽章が消え入るように終止する。第3楽章もピアニッシモで終止するように進行し、取ってつけたように突然わずか3小節、四分音符6回の強奏で終り、フィナーレに入る。この部分は、最初の序奏の音型が復活する。同じ音型がこんなにも雰囲気を替えてしまうのが不思議に感じる。
第2楽章の壮大な強奏で復活する序奏に出てきた音型と、美しい旋律が交互に同居する楽章の落差はチャイコフスキーの好んだウクライナ地方の広大な草原ながら厳しい自然に押しつぶされそうな人の営みを思い浮かべる。この2楽章も忘れがたい。
20代前半、このような曲ばかりに惹かれていた。50年後の私はフィナーレの中にも暗い情念の世界を嗅ぎ分けている。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲にも。