「椿の海の記」は冒頭から引き込まれる文章である。
第1章の前にこんな言葉が掲げられている。
「ときじくの/かぐの木の実の花の香り立つ/わがふるさとの/春と夏とのあいだに/もうひとつの季節がある ――死民たちの春」
この文によって、小説は「春と夏とのあいだ」の「もうひとつ季節」の物語ではないかと推察させる。さらに冒頭の一文は、
「春の花々があらかた散り敷いてしまうと、大地の深い匂いがむせてくる。海の香りとそれはせめぎあい、不知火海沿岸は朝あけの靄が立つ。朝陽が、そのような靄をこうこうと染め上げながら登り出すと、光の奥からやさしい海があらわれる。」
なかなか印象深い文章である。濃い文章が続く。このままでは作者は最古になるまでに息切れがしてしまうのではないか、と余計な心配をしてしまう。
池澤夏樹は解説で『この本を前にした時に一つ大事なことがある。ゆっくり読むこと。‥日行ずつを賞味するように丁寧に読まなければたくさんのものを取りこぼしてしまう。』
なかなかいい指摘である。また次のようにも記している。『いわばあの悲劇の前史だ。この幸福感の記憶があったからこそ石牟礼道子は「苦海浄土」を書くことができたのだし、その意味ではこの「椿の海の記」が「苦海浄土」を下支えしているのだ。」
じっくり読み進めることとしよう。