Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「老いのかたち」から 3

2024年08月22日 20時25分56秒 | 読書

   

 今朝は7時ころに横浜市域には大雨(浸水害)警報、洪水・雷注意報が出た。泉区・戸塚区・港南区などの西部の地区に80ミリ以上の雨の区域が通過していた。
 本日の横浜の最高気温は31.7℃と平年よりも約1℃高い気温であった。太陽は厚い雲に隠れて顔を出している時間は短かった。湿度は高かったようだが、連日35℃前後の気温が続いたためか、涼しく感じたのが悲しい。

 横浜駅近くのいつもより少し遠い喫茶店で一服しながら、短時間の読書。久しぶりに「老いのかたち」(黒井千次)から5編ほどを読んだ。
 こんな一節があった。「物によくぶつかるようになった。・・・気持ちの動きと動作との間にズレが生じているらしい。」という前半のあと、結語では「お互いが若い頃に知り合い、しばらく会わないままに歳月を経て再会したとき、この人はうまく歳を取ったな、と感じられるケースは間々あった。若さのかわりにゆったりとした落ち着きが生じ、いかにも大人という印象を与えられたものだ。・・・いい老人になったな、と感銘を売れることは稀である。扉や柱に頭をぶつけて顔をしかめる、歳月を重ねた気ぜわしい人々ばかりであるような気のすることが多い。」(「扉にぶつかり、窘められて」)と記されている。
 前半について私が付け加えるとしたら、私もときどき実感する緑内障などによる視野の欠損で、不意に物や人が眼前に現れる場合は、とても怖い。欠けている視野は狭くとも、緑内障も含めて視野の衰えは、物にぶつかる大きな要因である。歳を取るということの怖さの一つとして大きい。
 さて、この結語のところは頷ける。穏やかにゆったりとした落ち着きのある風格のある重大の頃の友人に会うことは本当に稀である。

 私が「うまく歳を取ったな」という思いをもたらしてくれる友人というのは多分、十代の頃の学業の優秀さや、当時の穏やかな性格とも重ならない。おそらく社会に出てからの経験、とくに多くの人々との接触や対話によって培われたものであろうと推察している。20代半ば以降の仕事などをとおしての人との接触や対話を意識的にうまく処理しようとしてきた体験が醸し出しているのだと思っている。そんな友人に先日会えたのはうれしかった。
 作者は末尾に近い方でこうも指摘している。
 「いつまでも若さと体力を保ち、元気でいることが求められるあまり、老人の安心して寛げる場がなくなった。老人のイメージが容易に像を結ばない。
 この指摘は重要ではないか。1960年代は50代後半で定年を迎えたが、今では70代でも現役で働かされる、働かないと生きていけない時代でもある。

 企業を含め集団の中での人間関係のきつさ、社会との接点のギスギスしたゆとりの無さが「隠居老人」になることを許していない。あるいは、家族の変化もあって現役時代に「隠居老人」である自分を想定できる社会生活を送っていない時代なのではないだろうか。「老人」は効率性の悪い「モノ」として「考慮の外」に追いやられていないか。現役の人々からは「老害」と云われ、社会生活を通して接する人々との関係の中に「老人」という範疇がすっぽりと抜け落ちていないだろうか。私達自身もそのような風潮に手を貸してきたのではないか、という自責も無いではない。
 地域においても、職場での関係においても、生涯をゆとりをもって振り返り、残された時間を人との豊かな関係を持続する歳の取り方が、自分も体現出来ているかと問えば、残念ながら否定的な現実しか見えてこない。



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