「文学や歌舞伎や浄瑠璃を見ていれば・・これらの消費者に多くの女性が含まれていることから考えても、男の幻想だけで物語を作り出すわけにはいかないはずなのだ。江戸時代における女の好色や性の心理的規制の緩やかさを、男の幻想のように考えるとしたら、そこには近代管理社会への忠誠心が見え隠れするだけだろう。」(「春画における覗き」)
「遠眼鏡による覗きという画中の見る者と見られる者とを隔てる距離の設定であった。こうした距離が設定されなければ、覗きとは両者の馴れ合いによる共犯関係にしかならない。そこでのエチケットとは互いに素知らぬ振りをすることであり、そうでなくては覗きそのものが一つの茶番劇と化してしまう。画中からの「見返す目」すなわち絵を見る者への語りかけによって、覗きという行為の心理的葛藤を白日の下に曝した歌麿は、その趣向に一大変革をもたらした。」(同)
「春画は布に満たされている。布の王国である。布と襞は、見る者の高まりを邪魔するどころか、さらに刺激している節がある。この傾向は18世紀には入ってから次第に強くなり、春信において甚だしくなり、歌麿において頂点を迎える。そのあとは次第に布地を描きこむことが単なる様式となり、仕方なく描いているように見え。布地はエロティシズムの一部ではなくなり、邪魔者になり始めるのである。これは明らかに時代の特徴であり、エロティシズムに時代的変遷があるといわざるを得ないだろう。それは歴史的であるとともに普遍的でもある。春画に限らず浮世絵一般のなかにも、西欧の絵画や彫刻の中にも見出される。エロティシズムに限らない。布とその文様や色彩の組み合わせは男女ともにその人のあり様を表現する一部として、明治初期に至るまで、日本の物語文学の中では頻繁に語られてきた。」(「エロティックな布」)
私にとっては参考になった論考であった。「春画」を江戸時代全体の文化状況を見極めながら、そこに位置付ける手法は魅力的であった。江戸と「文明開化以降の明治」との間のつながりと継続の側面も参考になる。