団地の雨はほぼ上がった。横浜市域では、さきほど雷注意報は解除になったが、大雨・洪水注意報がいまだ出ている。オンライン講座を聞いていた午前中はかなり強い雨が続いていた。
外も明るくなり、雀が5羽ほどベランダに置いてある鉢植えの周りで賑やかである。雀は鳩などに追われ、都会では極めてに少なくなったといわれている。わたしの住む団地内ではとても営巣は出来そうもない。
しかしここ数年、団地の中でも、さらに周囲の戸建て住宅地内でのウォーキングをしていても、目にする雀が多くなったように思われる。これが統計的に増えているということであれば、私としては嬉しい。雀というのは愛嬌がある。すばしこく、抜け目なくたくましい反面、意外と人懐っこいところもある。一定の距離を保ちさえすれば、観察していて見飽きることはない。特に小雀が餌に集中するあまり、人が傍にいても気がつかずにいることがあり、それが人に好かれる一面であろう。
あまり好みではないことわざに「雀の千声、鶴の一声」というのがある。現在では「鶴の一声」とだけ言うようになった。「雀のようなつまらない多数の声より、鶴のような優れたものの一声が真実」というような意味。だが、「鶴の一声」だけが独り歩きするようになると共に「組織のトップの決断」に変貌してしまった。
多くの人が誤解しているのは、組織のまとめ役=決断する人、ということで面倒なことは上役に任せるという意味になり、さらに任された人間は自分が「優れた人」と思い込んでしまうことである。
私は「鶴の一声」よりも「雀の千声」がまずは大事だと思う。これが無くては「鶴の一声」はない。
政治家というもの、いつも自分が「鶴の一声」を発することができる「優れた人」と思い込む人が多いようだ。またそんな「一声」を発したくて政治家を志す本末転倒な人も現れている。そんな政治家はまずは付和雷同のような意見ではなく、職業や生活に根差した本音のところから発せられた「雀の千声」を聞くことからはじめてもらいたいものである。
多くの人は自ら声を上げることはなかなかしない。他人の意見や「世論」などに迎合しない本音の意見をいかに発してもらえるか、力量が問われる。それは人の集団・組織がある限り、集団・組織の運営に携わる人が常に問われるものである。いつもこのことに自覚的でありたいと思う。
日が当たってきた。本日はさて、出かけるか家に籠って休養日とするか。
新型コロナで 公の政治家のニュース、会見を目にし、耳にするようになりました。
当選して政治で給料をもらうようになると顔つきが変わっていくのが何故なのか、一般人の小さな組織にも政治家がいること、そして 自分がどんな人が好きになれないのか、よくわかりました。
特にあの・・・(以下 自粛)
「一般人の小さな組織にも政治家がいること、そして 自分がどんな人が好きになれないのか、よくわかりました」‥‥私自身が書いた文章が私自身に帰ってきているのかと自問自答しているところです。自分の文章がブーメランになっていないか、いつも自己検証も必要ですね。
常に自戒・自重が‥。
“自粛”と隠された「・・・」の部分が怖い‥。