〈1〉
森喜朗の発言が炎上している。あまりにお粗末な発言である。私はもともとこんな人格の人間が仕切っていること自体が間違っていると思っていたので、「またやらかした」と思った。やらかすべくしてやらかした自業自得だと思う。組織の責任者に据えてはならない人である。
他者への配慮も、大きな組織で人を動かす統率力もないだけでなく、戦後の民主政治の理念すら理解していないし、総理大臣としてあまりに不適格と思ったものである。院政を敷かせてはいけない人である。
あの発言を聞いて、「老人はろくなことを言わない」と一般化されて言われてしまうことは、労働組合の退職者会の運営にタッチしている私としては、はなはだ迷惑である。
〈2〉
私が気になるのは、「女性」というものは、という風に一般化していることである。私は「我々の世代は‥」とか「公務員は‥」、「男は‥」、「女は‥」、「父親というものは‥」、「今年の新人は‥」という風に、性や世代や職業で一般化してしまうものの言い方、断定の仕方は、意味を持たない、と思ってきた。またそのように周囲の人間にも伝えてきた。
職業については、法律的な規定は順守する必要があるが、個人の性格にまで一般化する傾向が強い。患者の意見も飲み込めず、診察も満足にできないいい加減な若い医師もいれば、最新の技術は看護師に任せっぱなしでも患者ときちんと向き合える医師がいる。
また組織上の役割分担と性格を混同する議論もまかり通っている。会議で延々と30分も40分もしゃべり続けて、人の迷惑を顧みない男もいるが、きちんと議長役をこなせる人もいる。性や職業などで一般化できない。個人個人がいるだけである。
次に問題なのは、「余人をもって代えがたい」とほざいた政権与党の国会議員である。これも大問題である。まず、世界で通用しない日本の政治の後進性をこれほど明らかにした発言はないであろう。
あんな発言をする人間を「余人をもって代えがたい」と擁護する組織とはどんな情けない組織なのか。組織の構成員は怒らなくてはならない。ここまで馬鹿にされた他の理事や組織の責任者が、沈黙をしていること自体が、組織の危機なのである。
問題の三つ目は、あの発言をだれも止められなかったことと、釈明会見を組織的な討議なしで森喜朗だけの会見させたことである。理事会として止められなかったことの反省の表明をしなかったことは、組織委員会のとしての赤っ恥である。森一人の釈明会見は恥の上塗りである。
「組織委員会」はあの発言をさせてしまったことで組織の体をなしていないことを表明したといえる。
問題の四つ目は、会議の在り方である。会議というのは議論を行うところである。しかし多くの会議は「議論を行う場でなく、根回しで決まったことを追認し決定する」ことに堕している。会議というのは自由な議論が行われず、提案通りに質疑が無くなったらそれは組織の危機である。労使交渉でも労使双方が事務局の作成した文書を読みあっただけで終了するようになったら、交渉の形骸化である。
伝えられる話では、森喜朗のあの発言の会議では、彼が40分も続けて発言したといわれている。彼氏一人の独演会で、あったかのようである。参加者の自由で活発な議論が行われたという痕跡はどこにもうかがえない。組織委員会というもののありようが機能しているとはいいがたい実態も浮かび上がってきた。
〈3〉
コロナ禍のもとで、どのようなオリンピックが実施可能なのか、どういう状況ならば開催するのか、ワクチンも行きわたらないで、選手や関係者・観客の安全の確保の具体策は何か、公表していない。大会中の医療従事者の確保の見通しも公表されていない。もう2月に入っている。世界からどれだけの国が参加できる状況にあるのか、客観的な状況説明もない。
国民には検査抑制を説き、医療体制の整備よりも旅行キャンペーンに力を注ぎ、そしてオリンピック選手団には検査の充実を画策し、国民の分断を図っている。
今の時期は、具体的なタイムスケジュール、人の配置、選手選考の進展状況、参加国の選手団の入国の在り方、受け入れ態勢などが具体化して動き始めていなければならない。
精神論で「やる」ばかりでは、撤退という言葉がなく、兵站の確保もしなかった80年前の戦争と同じである。犠牲者は選手であり、国民である。しかも世界からの参加選手も犠牲者である。
組織委員会や政府は、だれも責任を取る気などない。それが今回のドタバタで明らかとなった。
〈4〉
出場が内定しているある女性アスリートが、「アスリートとしてはオリンピックに参加したいが、(今のコロナ禍という状況で)国民としては中止してほしい」と発言していた。私はとてもすぐれた発言だと感じた。
あらためて問いたいのは「なぜ東京なのか、なぜそこに固執するのか」ということである。
嘘ばかりで招致した「東京」。曰く「福島の原発はアンダーコントロール」「費用のかからない施設運用」「復興促進のため」‥。まして「都市基盤整備の促進とその啓発」、「国威発揚のため」などという言葉が飛び交っていた。多くのアスリートはすでに世界各地を転戦しながらその技量を高めている。世界性を高めている。「東京」にこだわるものは何なのだろうか。「復興促進」と「東京」、この関係も具体性がなく、私には伝わってこない。
障碍者のための公共施設の整備は、オリンピックに関わらず促進しなければならないことで、オリンピックをダシにしてはこれまでの為政者の怠慢を糊塗するものである。
「国威発揚」などオリンピックの歴史そのものの否定であった。政治に振り回されたオリンピックの負の側面を強調してしまった。私はもう「東京オリンピック」という「オリンピック幻想」から日本は目を覚まさないと、あるいは大きなイベントで社会が活性化するということ自体から脱却しないといけないと切実に思う。
【追記】 奇しくも本日は、森喜朗の退陣のきっかけともなった、米国潜水艦の衝突による宇和島水産高校の練習船「えひめ丸」遭難事故から20年目であった。事故の一報後もゴルフ場を離れなかったとされる当時の森喜朗首相と、彼が主導するオリンピック。なんとも表現のしようがない。亡くなった犠牲者の冥福をひたすら祈るばかりである。
今回の森さんの発言には驚きません。
昔からそういう人だったと思います。
彼を擁護する人は所詮、
同じ穴のムジナだと思います。
案外好きだった、
橋下徹さんがテレビで
森さんを擁護しているのを
見てガッカリしました。
オリンピック精神を前面に立てるならば、国別の協議形式はなじみませんね。国別にすれば、「国威発揚」になってしまいます。
維新という組織に関わっている政治家は、いづれも人間性に問題ありすぎです。人としてとても信用できない。