「方丈記私記」(堀田善衛)の第4章「古京すでに荒れて、新都はいまだ成らず」、第5章「風のけしきにつひにまけぬる」、第6章「あはれ無益の事かな」を読み終えた。
「空襲下にあってこの方丈記を読み耽っていると、戦時に生起することのほとんどすべてについて、思いあたることがあるようになって来る。空襲による生命の危険だけでなくて、物心両面の一大不自由などのことから、心底から戦争下にある日本、ひいては日本国自体が厭になって来たような瞬間には、まことに待ち構えていたかのようにして、“羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ。”ということばが口の端を衝いて出て来るのであった。」(第4章)
「千載和歌集を、定家の父俊成が撰を続けていたことを記しておいた。‥洗練の極致を行こうとする観念と形而上の世界、“天の原おもへばかはるいろもなし秋こそ月のひかりなりけり”(定家「初学百首」)という、その月の下の現実世界では、連続大地震、兵乱、殺戮などのことが日もあえずに行われていた、そういん現実の一切の捨象を可能にしたものは、やはり私は朝廷一家というものの在り様と無関係ではないと思うものだ。朝廷一家の行う“政治”なるものが、怖るべき政治責任、結果責任などというものとまるで無関係なところにあるものとして在るからこそ、怖るべき現実世界の只中においてあのような形而上世界を現出させえたのだ、‥‥千載和歌集や、やや下って新古今和歌集などの、繊細さ、人工独立詩歌の世界、その形而上性などをフランスの象徴詩などとならべて、いやそれ以上のものとして人間が持ちえた最高のものの一つとして考えるものであるけれども、それを可能にした一つの要素が、当時における天皇制のあり方とどうしても関係がある‥と思う。」(第5章)
「鎌倉は、たしかに関東武士に発する新しい理念、京都にはまったくない機動性ゆたかな理念を生んだ。そこに新しい日本は、たしかに芽生えていた。けれども、同時に、その理念をうたたてるために払わなければならなかった犠牲もまた、あまりに多すぎた。そうしてその犠牲の多くは、極めて短期間のあるいだの、近親殺戮に類したものであった。幕府開設以来、公暁出家まで、二十五年に満たずして、鎌倉はすでに疑心より暗鬼の生ずる夢想、夢魔につかれたような状況になっていた。眼前の事実よりもいわゆる流言飛語の方が現実感においてまさっているという経験は、戦時末期において私たちの経験でもあった。鎌倉は、新たなる理念ではではなく、夢想、夢魔が日常となった場所となっていた。」(第5章)
この「鎌倉」を1944年以降の敗戦にひた走る日本にたとえているが、戦後日本の反体制派の「内ゲバ」状況にもあてはめることが出来る。その周辺であったとしてもまったくそことは無縁ではないところにいた私自身もまた、この先験的な指摘に愕然とする。同時に体制派の政治状況もまた同質であったことも指摘しておきたい。飛躍しすぎるという指摘は当然あるが、しかし、敵に合わせて自らも変質することに自覚的でなければならなかった。誰もが無縁では無かったのである。
「定家のようなひたむきな芸術至上主義者は、決して自賛自慢などしはしない。詩をして、その極限まで、行き止まりまで行かせることに定家は献身する。自嘲などもってのほかである。この道において帝王も問題にはならぬ。後鳥羽院御口伝なるものは、そういう定家が、時に「坊弱無人」と見え、「ゆゆしげ」であり、「ことはりも過ぎたりき」と同じく詩人であったこの帝王さえ呆れている様を伝えている。定家は断じて長明が一方において認めている、「心にいたく思ふ事になりぬれば、おのづから歌はよまるゝ也。歌よみならねば、ただおもふあまりに、おのづからいはれたりるにこそ」といった自然歌詠を認めない‥」(第6章)