ずっと観に行ってみたいと思い続けていた美術館のひとつ
今回じっくり紹介してくれて有難い
【内容抜粋メモ】
長野県上田市
坂道を登ると小さな美術館があります
作家 小野正嗣が訪ねる
無言館の扉を開けると不思議な空気に包まれました
無言館には戦没画学生の絵とともに
出征の時の写真や資料も展示されています
小野:
22歳ですよ
皆若くして亡くなっている
1938年に東京美術学校に入学した学生たち
彼らの多くは戦場に駆り出され戦死しています
野見山暁治も満州に出征しましたが病気になり療養のため帰国し死を免れました
戦後は画家として一線で活躍し、文化勲章も授与されています
無言館の歴史は野見山と窪島誠一郎の出会いから始まりました
野見山は戦後、人生の中で大きな忘れ物をしたと語っています
当時、窪島は若くして亡くなった夭折画家の絵を集めた旧信濃デッサン館を開いていました
窪島:
今から43年前 まだ僕は34歳
信濃デッサン館美術館を作った
その時、野見山先生が
「早死にした絵描きが好きなんだろう?
僕の仲間にも戦争から帰ってきたら
さぞ才能を発揮しただろうなという仲間がたくさん死んだ
戦後50年近づいてきたら、お父さんお母さんもいなかろう
あるいはご親族の方もだんだん少なくなってくる
あいつらの絵はどうなっているかと思うと
この世から消えてってしまうかと思うと残念なんだよ」とおっしゃった
それが着火点になった
絵描きは絵さえ残ればまだ死んでない
この世から彼らの絵がなくなった時に初めて
生きていた存在そのものがなくなる
間に合うんだったら、今から集めたいと思ったんです
戦争は遠い過去になっても、遺族は学生たちの遺作を大切に守っていました
何かに駆り立てられるような旅が続きます
屋根裏や押入れからひび割れ、傷ついた作品が現れると
止まっていた時間が眠りから覚めて動き出すようでした
声も出せずに凝視する瞬間
窪島:
大げさな言い方をすると
自分がその絵を発見したというよりは
その絵に僕が発見されたような
彼らの絵は「お前はどういう生き方をしてきたんだ?」
っていう根源的な問いかけを持ってた気がします
無言館には戦争そのものは描かれていません
画学生は死を覚悟し、自分が一番大切なものを描きました
何度も大きなため息をつきながら絵を見ている小野さん
絵には祖母が幼い清をおんぶする時に羽織っていた半纏が描かれています
小野:
きっとご自身のおばあちゃんですよね
これは戦争に行かなくてはいけない人が
何を絵に描くかってという時に
自分のおばあちゃんの絵を描いた
きっとこの方にとっておばあちゃんがとても大切な人だったんだろうな
おばあちゃんは少し遠い眼差しですが
清さんを見ている優しい眼差しなんだと思います
1943年
蜂谷清は召集令状受け取り、祖母のなつを描きました
出征して2年 フィリピンレイテ島で戦死
22歳でした
かわいがっていた四つ違いの妹
小野:
とても清楚な感じで美しい
眼差しがとても悲しい感じがしますけれども
太田章は友禅職人の家に生まれ
父の期待を一身に受けて育ちました
東京美術学校の日本画家で学んでいました
章は満州で戦死 23歳でした
小野:
優しいですね 家族団らんで
おばあちゃん、お母さん、お父さん、兄弟
これが多分ご本人ですよね
キャンバスで絵を描いている
普通は描いている人と家族と一緒の空間にはいられないわけですけれども
描いてる自分もその中に描くことによって
ご自身の大切な家族の中にともにいたかったということでしょうか
伊澤洋は美術学校在学中に召集令状を受けます
満州、ニューギニアと転戦し、26歳で戦死しました
貧しい農家に生まれた洋は、入隊する前日
家族への贈り物としてこの絵を描きました
両親は大切にしていた庭のケヤキを伐り学費にあててくれました
綺麗な着物を着た両親
果物と紅茶カップが並ぶ食卓
この絵に描かれた暮らしぶりは現実ではなく
洋の理想が描かれたものでした
佐久間修は周囲の反対の中で静子と結婚
1939年 東京美術学校を卒業
勤労労働先で空襲に遭い亡くなりました
妻を描いたデッサン
若い特攻兵を描いた大貝弥太郎は
卒業後、鹿児島で教師をしながら
出撃前の学徒兵を描きました
小野:すごく損傷していますね
死を覚悟した若者
戦後の歳月の中で無残に傷ついた絵そのものが
戦争の残酷さを訴えかけているようです
戦争が終わって75年
今も無言館の坂を登り画学生の遺作を運び込む家族がいます
一人娘だった原昌子さんが夫とともに
兵庫県宝塚市から信州にやってきました
原 79歳:
この3点だけにしておこうと思って
あとは家に置いてきたんですけれども
先が心細くなってくると
お仲間の中においていただくほうが幸せかなって主人と話し合って
絵ともに父の遺書も持ってきました(立派な巻物
当時まだ2歳だった娘さんのことは最後のほうに書いてある
昌子:
「悲しんではいけません」と
書いてあるのが私には随分と引っかかりまして
随分と母親やおじいちゃん、おばあちゃんにつっかかりました
昌子ちゃんへ
お父様は天皇陛下のために死ぬのですから
少しも悲しんではいけません
昌子が大人になって立派になるのを
いつもお父様は見ていてあげますよ
お父様が昌子のそばにいなくても
お母様の言いつけをよく聞いて
良い子でいるのですよ
お父様は昌子が大好き
(こうした戦争中にやり取りした手紙の数々を昔、遊就館の展示で見たことがある
窪島:
普段はご案内はしないんですけれども
たまにご遺族に見せるんです
収蔵庫に飾りきれない絵が収蔵されている
時の庫(くら)と言います
「時の庫(くら)」
窪島:
貧乏美術館の割には設備のしっかりした
絵は大事にしている
こうして普段飾れない絵や
これから修復していただこうかという絵もあります
修復の待合室みたいな
小野:全体で何点くらいあるんですか?
窪島:
大体600点 資料を全部含めて
この絵は特攻隊で16歳で亡くなった画学生
修復したいんですけれども
軍艦を作っているんです
この翌年彼は亡くなるんですけれども
早く修復をしてなんとかスペースを探して飾りたいと思ってるんです
小野:ここにある絵はみんなご家族がずっと大切に持ってたものですものね
窪島:
僕は今こうして偉そうにしていますが
さしずめ第二走者です
つまり戦後50年、遺族が守ってきた50年という第一走者がいて
今戦後75年、残りの25年は僕が走ってる
実はこの絵を観てもらいたい
不思議な感じの絵なんです
大江正美という独学で英語を勉強した男の
「白い家」という非常に暗い絵の下に
もう一つ絵がしまいこまれていた
とても対照的な絵で、暗い絵の下に
ちょっとシュールな絵を描いていたっていう事実
それが全然わからない
修復の先生の所にお預けしたら
「2枚絵があるわよ」と連絡があって
不思議な出会いでした
アトリエ山領@東京都武蔵野市
日本の絵画修復の先駆者・山領まりさんが主催するアトリエ山領
時の庫に保管されている傷んだ絵はここで修復されています
(いろんな仕事があるなあ
スタッフ:
絵も一つのものですから時間とともに劣化していきます
遺族から手渡された絵の多くは剥落や亀裂が目立ち傷ついていました
その損傷を修復するため試行錯誤が続きました
あまり目立ってはいないんですけれども
隙間も空いてたので、そういうところにはニカワをさして
これ以上めくれ上がらないように接着の強化をまず最初に行いました
黒っぽいところには白いシミがついて
雨垂れのように汚れが全体的に
汚れた水ではなく糞っていう感じがものすごくリアルに
そういうのは嫌な感じがしたので
それを丁寧に水で取っていきました
(こういうのも時間の経過という
ひとつの大切な要素として考えることもできるよね
山領まりさん 85歳
無言館の絵を守ってきた中心人物です
損傷をどう扱うべきか一般の絵画とは違う独自の方法を模索しました
最初に手がけた絵の調査表です
患者のカルテのように絵の状態を記し
写真を撮り記録を残します
戦争から半世紀
すで遺作は無残に傷ついていました
修復を終え、現在は無言館で展示されている
2020年1月取材
(鼻に管をつけて喋ってる/驚
山領:
それまではその絵が描かれた当初の状態に
近づける努力をするのが修復だと考えていたので
なだらかにしたほうがいいんじゃないかなと言って
非常に似た色を作って少しずつ周りを埋めたんですね
そうしてみたら、ものすごくわざとらしくて
作品を見やすくするどころか
邪魔なものを入れることになるんじゃないか
相談して非常に鋭角的な欠損のままにしたんです
だから絵が傷んでくるっていうのは
自然の法則みたいな色々な力が働いてその姿なので
中途半端に手を入れて介入するということは
本当にその絵にとって命を奪うような感じを受けた
その時に分かりました
入り口に飾られ、無言館を象徴する飛行兵立像の調査表
スタッフ:
長年にわたって丸めてあったので
絵具層の固着が大変弱く、剥落と…
特別に損傷が激しい作品でした
遺族は絵を木枠から外して丸めて保管していました
(絵を丸めるとこうなっちゃうんだ
まり:
重症患者を救った時と同じなんじゃないかしら
とにかく必要なことをやるしかない
落ちそうなところから接着していった
損傷したものをそのままの形で
損傷そのものも尊重しなければいけないということがわかった
この絵に限って、もしかして描かれた当初よりも
今のほうが力があるのかもしれない
損傷を絵が経てきた時間として尊重する
剥落は埋めず、亀裂や折れはこれ以上悪くならないように補修する
遺族から手渡されたその時の感動をとどめて
未来へ手渡す
修復が終わった一枚の裸婦像
スタッフ:
ここからだとわかりにくいんですけれども
真ん中の部分は後ろから糸を足して補強した
折れが強い部分が裂ける可能性がありましたので
一本ずつ交互に長さの違う糸を接着しています
この絵には切ない別れの物語が潜んでいます
中村萬平は1941年春、東京美術学校を首席で卒業しました
自由闊達で明るい性格の中村は
学生の間でもリーダー的な存在で
学生生活をエンジョイしました
中村がモデルだった霜子と恋に落ち
時代の重圧をはねのけるように結婚します
召集令状受け、死を覚悟して
一筆ごとに愛をこめ描きました
萬平の出征写真
霜子には新しい命が宿っていました
萬平を満州に見送り出産しますが
産後の肥立ちが悪く帰らぬ人となりました
萬平は大陸の前線で長男の誕生と霜子の死を知らされます
「月となった霜子が会いに来た」と両親への手紙に書きました
そして1年後、萬平も26歳で戦死
入口を入って左と右
霜子と向き合うようなもう一枚の裸婦像
モデルの横顔は真剣そのもので
描き手もモデルも緊張で固くなっているようです
描いたのは萬平より1年下で学んだ日高安典
鹿児島県種子島の出身
家族の期待を背負い上野の学校に通っていました
卒業の翌年に召集令状が届き満州へ出征しました
上官に認められ軍務の傍ら特別に絵を描くことを許されていました
内モンゴルの大草原を描いた風景画
この絵も無言館に掲げられています
1945年4月 安典は27歳で戦死しました
無門館が開館して2年後の夏
無言館には来館者が自由に感想を記すノートが置かれています
その中に安典の裸婦像をめぐる思わぬ言葉が書かれていました
アトリエ第 Q 芸術 東京都世田谷区
窪島:
感想文ノートっていうのがある
そこに「安典さん あなたの絵と会いに来ました」
という1行から始まる文章が載ってたんです
モデルを務めたこの女性の文章を
私がいくらか手を入れて
ご本人に迷惑がかからない程度にまとめて
文章にいたしました
「安典さんへ」
安典さん 日高安典さん
私来ました
とうとうここへ来ました
あなたの絵に会いに
この美術館にやってきたんです
私もうこんなおばあちゃんになってしまったんですよ
だってもう50年も昔のことなんですもの
安典さんに絵を描いてもらったのは
あれはまだ戦争がそう激しくなっていなかった頃でした
安典さんは東京美術学校の詰め入りの服を着て
私の代沢のアパートによく訪ねてきてくれましたね
私は洋裁学校の事務をしていましたが
知人に紹介されて美術学校のモデルのアルバイトに行っていたのでした
あの頃はまだ遠い外国で日本の兵隊さんが
たくさん戦死しているだなんていう意識がまるでなくて
毎日毎日私たちは楽しい青春の中におりました
安典さん
あの小雨の降る下北沢の駅で
勤めから帰る私を傘を持って迎えに来てくれた
あなたの姿を今でも忘れていませんよ
安典さん 私覚えているんです
この絵を描いてくださった日のことを
初めて裸のモデルを務めた私が
緊張にブルブルと震えてとうとうしゃがみこんでしまうと
「僕が一人前の絵描きになるためには
一人前のモデルがいないとダメなんだ」
と私の肩を絵の具だらけの手で抱いてくれましたね
なんだか私涙が出て、涙が出て
けれど安典さんの真剣な目を見て
また気を取り直してポーズをとりました
あの頃すでに安典さんはどこかで
自分の運命を感じているようでした
今しか自分には時間が与えられていない
今しかあなたを描く時間が与えられていない
とそれはそれは真剣な目で絵筆を動かしていました
それがこの二十歳の私を描いた安典さんの絵でした
そして安典さんは昭和19年の夏、出陣学徒として満州に出征していきました
「できることならまた生きて帰って君を描きたい」と言いながら
それから50年
それはそれはあっという間でした
世の中もすっかり変わっちゃって
戦争も随分昔のことになりました
安典さん
私こんなおばあちゃんになるまで
とうとう結婚もしなかったんですよ
一人で一生懸命生きてきたんですよ
安典さん 日高安典さん
あなたが私を支えてくれたあの夏は
私の心の中で今もあの夏のままなんです
窪島:
戦争ということを伝えると同時に
あの戦争という時代の中でも
今の彼らと全く変わらない青春があったわけです
じゃあこの画学生たちは本来ただ単に
戦争の犠牲者という館に押し込めておいて
この絵描きたちそのものが果たして
ちゃんと遇されていると言えるんだろうかという疑問があった
彼らが一番喜ぶのは、自分が何を描こうとしていたか
そしてその究極のあと一週間しか生きていられない
戦争に行かなければいけないといった時に
絵を描くということをもっている幸福
これを伝えるとしたら
これは戦争を伝えるとかにこだわっちゃいけない
今生きてる、サッカーやったり、野球やったり
燃えている彼、彼女たちにこそ見てもらうべきじゃないか
簡単に言えば君の命は何のためにあるの?
だって明日生きたい
絵を描きたいと言っていながら
生きられなかった人の分を
君が、俺も生きている
その時間をどう使えばいいか
そこが全てじゃないかな
小野:
この人達は戦争の中に生きてたけど
絵を描くことに喜びを感じていたわけですよね
窪島:
だから本当は彼らは描いている時は
どんな悲惨な状況になっても笑っていたかもしれない
ましてやあの時代、絵を描くということ自体が非国民扱いされていた時代ですから
飛び抜けたイケメンであり
飛び抜けたセンスの持ち主の若者たちなんですよ
決して屈してめそめそして涙流しながら
絵なんか描いちゃいないんですよ
大好きな女性の裸を直視して
1日10時間を費やして戦地に行った
あの濃密な時間っていうのは
芸術の根源であると同時に
人間が生きていくことの
一番尊い時間だったと思う
毎年アトリエへ10点を超える傷ついた絵が運ばれてきます
時間とともに進む損傷との戦いは終わることはありません
画学生の命は戦争で断ち切られました
しかし作品だけは保存し、未来へ伝えたい
忍耐強く誠実な仕事が続きます
まり:
どういう形で後輩たちに仕事を手渡していくか
私は半ば道筋が見えてきて希望を持ってます
2020年7月26日 まりさんはご逝去されました(つい最近だ/驚
***
実際に行って、絵と対峙してみないと分からないけれども
番組を見ているかぎり
戦争で夭逝した若い画家という悲しみよりも
絵を描いて、人生を生ききったんだなという感じがした
窪島さんは、その絵を集めて展示し
まりさんは、ひたすら毎日修復して
みんなそれぞれの生涯を生きている
それは素晴らしいことだなあ
追。
信州戦争資料センター 長野県から伝える戦争の姿:戦争資料を探しています
終戦から75年。戦争は「過去」ではない。人工知能でカラー化された写真は訴える(画像集) | ハフポスト
今回じっくり紹介してくれて有難い
【内容抜粋メモ】
長野県上田市
坂道を登ると小さな美術館があります
作家 小野正嗣が訪ねる
無言館の扉を開けると不思議な空気に包まれました
無言館には戦没画学生の絵とともに
出征の時の写真や資料も展示されています
小野:
22歳ですよ
皆若くして亡くなっている
1938年に東京美術学校に入学した学生たち
彼らの多くは戦場に駆り出され戦死しています
野見山暁治も満州に出征しましたが病気になり療養のため帰国し死を免れました
戦後は画家として一線で活躍し、文化勲章も授与されています
無言館の歴史は野見山と窪島誠一郎の出会いから始まりました
野見山は戦後、人生の中で大きな忘れ物をしたと語っています
当時、窪島は若くして亡くなった夭折画家の絵を集めた旧信濃デッサン館を開いていました
窪島:
今から43年前 まだ僕は34歳
信濃デッサン館美術館を作った
その時、野見山先生が
「早死にした絵描きが好きなんだろう?
僕の仲間にも戦争から帰ってきたら
さぞ才能を発揮しただろうなという仲間がたくさん死んだ
戦後50年近づいてきたら、お父さんお母さんもいなかろう
あるいはご親族の方もだんだん少なくなってくる
あいつらの絵はどうなっているかと思うと
この世から消えてってしまうかと思うと残念なんだよ」とおっしゃった
それが着火点になった
絵描きは絵さえ残ればまだ死んでない
この世から彼らの絵がなくなった時に初めて
生きていた存在そのものがなくなる
間に合うんだったら、今から集めたいと思ったんです
戦争は遠い過去になっても、遺族は学生たちの遺作を大切に守っていました
何かに駆り立てられるような旅が続きます
屋根裏や押入れからひび割れ、傷ついた作品が現れると
止まっていた時間が眠りから覚めて動き出すようでした
声も出せずに凝視する瞬間
窪島:
大げさな言い方をすると
自分がその絵を発見したというよりは
その絵に僕が発見されたような
彼らの絵は「お前はどういう生き方をしてきたんだ?」
っていう根源的な問いかけを持ってた気がします
無言館には戦争そのものは描かれていません
画学生は死を覚悟し、自分が一番大切なものを描きました
何度も大きなため息をつきながら絵を見ている小野さん
絵には祖母が幼い清をおんぶする時に羽織っていた半纏が描かれています
小野:
きっとご自身のおばあちゃんですよね
これは戦争に行かなくてはいけない人が
何を絵に描くかってという時に
自分のおばあちゃんの絵を描いた
きっとこの方にとっておばあちゃんがとても大切な人だったんだろうな
おばあちゃんは少し遠い眼差しですが
清さんを見ている優しい眼差しなんだと思います
1943年
蜂谷清は召集令状受け取り、祖母のなつを描きました
出征して2年 フィリピンレイテ島で戦死
22歳でした
かわいがっていた四つ違いの妹
小野:
とても清楚な感じで美しい
眼差しがとても悲しい感じがしますけれども
太田章は友禅職人の家に生まれ
父の期待を一身に受けて育ちました
東京美術学校の日本画家で学んでいました
章は満州で戦死 23歳でした
小野:
優しいですね 家族団らんで
おばあちゃん、お母さん、お父さん、兄弟
これが多分ご本人ですよね
キャンバスで絵を描いている
普通は描いている人と家族と一緒の空間にはいられないわけですけれども
描いてる自分もその中に描くことによって
ご自身の大切な家族の中にともにいたかったということでしょうか
伊澤洋は美術学校在学中に召集令状を受けます
満州、ニューギニアと転戦し、26歳で戦死しました
貧しい農家に生まれた洋は、入隊する前日
家族への贈り物としてこの絵を描きました
両親は大切にしていた庭のケヤキを伐り学費にあててくれました
綺麗な着物を着た両親
果物と紅茶カップが並ぶ食卓
この絵に描かれた暮らしぶりは現実ではなく
洋の理想が描かれたものでした
佐久間修は周囲の反対の中で静子と結婚
1939年 東京美術学校を卒業
勤労労働先で空襲に遭い亡くなりました
妻を描いたデッサン
若い特攻兵を描いた大貝弥太郎は
卒業後、鹿児島で教師をしながら
出撃前の学徒兵を描きました
小野:すごく損傷していますね
死を覚悟した若者
戦後の歳月の中で無残に傷ついた絵そのものが
戦争の残酷さを訴えかけているようです
戦争が終わって75年
今も無言館の坂を登り画学生の遺作を運び込む家族がいます
一人娘だった原昌子さんが夫とともに
兵庫県宝塚市から信州にやってきました
原 79歳:
この3点だけにしておこうと思って
あとは家に置いてきたんですけれども
先が心細くなってくると
お仲間の中においていただくほうが幸せかなって主人と話し合って
絵ともに父の遺書も持ってきました(立派な巻物
当時まだ2歳だった娘さんのことは最後のほうに書いてある
昌子:
「悲しんではいけません」と
書いてあるのが私には随分と引っかかりまして
随分と母親やおじいちゃん、おばあちゃんにつっかかりました
昌子ちゃんへ
お父様は天皇陛下のために死ぬのですから
少しも悲しんではいけません
昌子が大人になって立派になるのを
いつもお父様は見ていてあげますよ
お父様が昌子のそばにいなくても
お母様の言いつけをよく聞いて
良い子でいるのですよ
お父様は昌子が大好き
(こうした戦争中にやり取りした手紙の数々を昔、遊就館の展示で見たことがある
窪島:
普段はご案内はしないんですけれども
たまにご遺族に見せるんです
収蔵庫に飾りきれない絵が収蔵されている
時の庫(くら)と言います
「時の庫(くら)」
窪島:
貧乏美術館の割には設備のしっかりした
絵は大事にしている
こうして普段飾れない絵や
これから修復していただこうかという絵もあります
修復の待合室みたいな
小野:全体で何点くらいあるんですか?
窪島:
大体600点 資料を全部含めて
この絵は特攻隊で16歳で亡くなった画学生
修復したいんですけれども
軍艦を作っているんです
この翌年彼は亡くなるんですけれども
早く修復をしてなんとかスペースを探して飾りたいと思ってるんです
小野:ここにある絵はみんなご家族がずっと大切に持ってたものですものね
窪島:
僕は今こうして偉そうにしていますが
さしずめ第二走者です
つまり戦後50年、遺族が守ってきた50年という第一走者がいて
今戦後75年、残りの25年は僕が走ってる
実はこの絵を観てもらいたい
不思議な感じの絵なんです
大江正美という独学で英語を勉強した男の
「白い家」という非常に暗い絵の下に
もう一つ絵がしまいこまれていた
とても対照的な絵で、暗い絵の下に
ちょっとシュールな絵を描いていたっていう事実
それが全然わからない
修復の先生の所にお預けしたら
「2枚絵があるわよ」と連絡があって
不思議な出会いでした
アトリエ山領@東京都武蔵野市
日本の絵画修復の先駆者・山領まりさんが主催するアトリエ山領
時の庫に保管されている傷んだ絵はここで修復されています
(いろんな仕事があるなあ
スタッフ:
絵も一つのものですから時間とともに劣化していきます
遺族から手渡された絵の多くは剥落や亀裂が目立ち傷ついていました
その損傷を修復するため試行錯誤が続きました
あまり目立ってはいないんですけれども
隙間も空いてたので、そういうところにはニカワをさして
これ以上めくれ上がらないように接着の強化をまず最初に行いました
黒っぽいところには白いシミがついて
雨垂れのように汚れが全体的に
汚れた水ではなく糞っていう感じがものすごくリアルに
そういうのは嫌な感じがしたので
それを丁寧に水で取っていきました
(こういうのも時間の経過という
ひとつの大切な要素として考えることもできるよね
山領まりさん 85歳
無言館の絵を守ってきた中心人物です
損傷をどう扱うべきか一般の絵画とは違う独自の方法を模索しました
最初に手がけた絵の調査表です
患者のカルテのように絵の状態を記し
写真を撮り記録を残します
戦争から半世紀
すで遺作は無残に傷ついていました
修復を終え、現在は無言館で展示されている
2020年1月取材
(鼻に管をつけて喋ってる/驚
山領:
それまではその絵が描かれた当初の状態に
近づける努力をするのが修復だと考えていたので
なだらかにしたほうがいいんじゃないかなと言って
非常に似た色を作って少しずつ周りを埋めたんですね
そうしてみたら、ものすごくわざとらしくて
作品を見やすくするどころか
邪魔なものを入れることになるんじゃないか
相談して非常に鋭角的な欠損のままにしたんです
だから絵が傷んでくるっていうのは
自然の法則みたいな色々な力が働いてその姿なので
中途半端に手を入れて介入するということは
本当にその絵にとって命を奪うような感じを受けた
その時に分かりました
入り口に飾られ、無言館を象徴する飛行兵立像の調査表
スタッフ:
長年にわたって丸めてあったので
絵具層の固着が大変弱く、剥落と…
特別に損傷が激しい作品でした
遺族は絵を木枠から外して丸めて保管していました
(絵を丸めるとこうなっちゃうんだ
まり:
重症患者を救った時と同じなんじゃないかしら
とにかく必要なことをやるしかない
落ちそうなところから接着していった
損傷したものをそのままの形で
損傷そのものも尊重しなければいけないということがわかった
この絵に限って、もしかして描かれた当初よりも
今のほうが力があるのかもしれない
損傷を絵が経てきた時間として尊重する
剥落は埋めず、亀裂や折れはこれ以上悪くならないように補修する
遺族から手渡されたその時の感動をとどめて
未来へ手渡す
修復が終わった一枚の裸婦像
スタッフ:
ここからだとわかりにくいんですけれども
真ん中の部分は後ろから糸を足して補強した
折れが強い部分が裂ける可能性がありましたので
一本ずつ交互に長さの違う糸を接着しています
この絵には切ない別れの物語が潜んでいます
中村萬平は1941年春、東京美術学校を首席で卒業しました
自由闊達で明るい性格の中村は
学生の間でもリーダー的な存在で
学生生活をエンジョイしました
中村がモデルだった霜子と恋に落ち
時代の重圧をはねのけるように結婚します
召集令状受け、死を覚悟して
一筆ごとに愛をこめ描きました
萬平の出征写真
霜子には新しい命が宿っていました
萬平を満州に見送り出産しますが
産後の肥立ちが悪く帰らぬ人となりました
萬平は大陸の前線で長男の誕生と霜子の死を知らされます
「月となった霜子が会いに来た」と両親への手紙に書きました
そして1年後、萬平も26歳で戦死
入口を入って左と右
霜子と向き合うようなもう一枚の裸婦像
モデルの横顔は真剣そのもので
描き手もモデルも緊張で固くなっているようです
描いたのは萬平より1年下で学んだ日高安典
鹿児島県種子島の出身
家族の期待を背負い上野の学校に通っていました
卒業の翌年に召集令状が届き満州へ出征しました
上官に認められ軍務の傍ら特別に絵を描くことを許されていました
内モンゴルの大草原を描いた風景画
この絵も無言館に掲げられています
1945年4月 安典は27歳で戦死しました
無門館が開館して2年後の夏
無言館には来館者が自由に感想を記すノートが置かれています
その中に安典の裸婦像をめぐる思わぬ言葉が書かれていました
アトリエ第 Q 芸術 東京都世田谷区
窪島:
感想文ノートっていうのがある
そこに「安典さん あなたの絵と会いに来ました」
という1行から始まる文章が載ってたんです
モデルを務めたこの女性の文章を
私がいくらか手を入れて
ご本人に迷惑がかからない程度にまとめて
文章にいたしました
「安典さんへ」
安典さん 日高安典さん
私来ました
とうとうここへ来ました
あなたの絵に会いに
この美術館にやってきたんです
私もうこんなおばあちゃんになってしまったんですよ
だってもう50年も昔のことなんですもの
安典さんに絵を描いてもらったのは
あれはまだ戦争がそう激しくなっていなかった頃でした
安典さんは東京美術学校の詰め入りの服を着て
私の代沢のアパートによく訪ねてきてくれましたね
私は洋裁学校の事務をしていましたが
知人に紹介されて美術学校のモデルのアルバイトに行っていたのでした
あの頃はまだ遠い外国で日本の兵隊さんが
たくさん戦死しているだなんていう意識がまるでなくて
毎日毎日私たちは楽しい青春の中におりました
安典さん
あの小雨の降る下北沢の駅で
勤めから帰る私を傘を持って迎えに来てくれた
あなたの姿を今でも忘れていませんよ
安典さん 私覚えているんです
この絵を描いてくださった日のことを
初めて裸のモデルを務めた私が
緊張にブルブルと震えてとうとうしゃがみこんでしまうと
「僕が一人前の絵描きになるためには
一人前のモデルがいないとダメなんだ」
と私の肩を絵の具だらけの手で抱いてくれましたね
なんだか私涙が出て、涙が出て
けれど安典さんの真剣な目を見て
また気を取り直してポーズをとりました
あの頃すでに安典さんはどこかで
自分の運命を感じているようでした
今しか自分には時間が与えられていない
今しかあなたを描く時間が与えられていない
とそれはそれは真剣な目で絵筆を動かしていました
それがこの二十歳の私を描いた安典さんの絵でした
そして安典さんは昭和19年の夏、出陣学徒として満州に出征していきました
「できることならまた生きて帰って君を描きたい」と言いながら
それから50年
それはそれはあっという間でした
世の中もすっかり変わっちゃって
戦争も随分昔のことになりました
安典さん
私こんなおばあちゃんになるまで
とうとう結婚もしなかったんですよ
一人で一生懸命生きてきたんですよ
安典さん 日高安典さん
あなたが私を支えてくれたあの夏は
私の心の中で今もあの夏のままなんです
窪島:
戦争ということを伝えると同時に
あの戦争という時代の中でも
今の彼らと全く変わらない青春があったわけです
じゃあこの画学生たちは本来ただ単に
戦争の犠牲者という館に押し込めておいて
この絵描きたちそのものが果たして
ちゃんと遇されていると言えるんだろうかという疑問があった
彼らが一番喜ぶのは、自分が何を描こうとしていたか
そしてその究極のあと一週間しか生きていられない
戦争に行かなければいけないといった時に
絵を描くということをもっている幸福
これを伝えるとしたら
これは戦争を伝えるとかにこだわっちゃいけない
今生きてる、サッカーやったり、野球やったり
燃えている彼、彼女たちにこそ見てもらうべきじゃないか
簡単に言えば君の命は何のためにあるの?
だって明日生きたい
絵を描きたいと言っていながら
生きられなかった人の分を
君が、俺も生きている
その時間をどう使えばいいか
そこが全てじゃないかな
小野:
この人達は戦争の中に生きてたけど
絵を描くことに喜びを感じていたわけですよね
窪島:
だから本当は彼らは描いている時は
どんな悲惨な状況になっても笑っていたかもしれない
ましてやあの時代、絵を描くということ自体が非国民扱いされていた時代ですから
飛び抜けたイケメンであり
飛び抜けたセンスの持ち主の若者たちなんですよ
決して屈してめそめそして涙流しながら
絵なんか描いちゃいないんですよ
大好きな女性の裸を直視して
1日10時間を費やして戦地に行った
あの濃密な時間っていうのは
芸術の根源であると同時に
人間が生きていくことの
一番尊い時間だったと思う
毎年アトリエへ10点を超える傷ついた絵が運ばれてきます
時間とともに進む損傷との戦いは終わることはありません
画学生の命は戦争で断ち切られました
しかし作品だけは保存し、未来へ伝えたい
忍耐強く誠実な仕事が続きます
まり:
どういう形で後輩たちに仕事を手渡していくか
私は半ば道筋が見えてきて希望を持ってます
2020年7月26日 まりさんはご逝去されました(つい最近だ/驚
***
実際に行って、絵と対峙してみないと分からないけれども
番組を見ているかぎり
戦争で夭逝した若い画家という悲しみよりも
絵を描いて、人生を生ききったんだなという感じがした
窪島さんは、その絵を集めて展示し
まりさんは、ひたすら毎日修復して
みんなそれぞれの生涯を生きている
それは素晴らしいことだなあ
追。
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