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司会:今田耕司、池田伸子アナウンサー
太田光さんは、時事問題をウィットに富んだ笑いに変え
時代の先頭を走り続けてきました
今回初めて自分のルーツと向き合います
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太田:
(モノクロの写真を見せて
そっくりでしょ?
笑っちゃうよね
俺かと思うよね
光さんの亡き父 太田三郎
都内で内装業を営み、妻のルチコとともに一人息子の光さんを育てました
三郎が太田家のルーツについて語ったこととは?
太田:
何も知らないです
親父の実家が枕屋をしていましたねw
そこまでしか知らないですよ
東京 板橋で今も枕製造を続ける父の実家
光さんの幼少期、毎年正月と盆には親戚中が集まる賑やかな一家だったといいます
光:
その中心に親父がいました
親父が面白いことを言う人っていう
しかも親父の周りにはいっぱい人がいるっていうのはすごく憧れだった
親父とお袋の若い頃がどうだったかとかには興味がありますけどね
俺の知らないことがいっぱいあるだろうし
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光:ルーツは多分猿だったとは思うんだけどw
今田:そこまではうちは遡らないんで(ww
奥さんの光代さんがすぐそばで見ている
初めて見た 可愛い人
とっても仲がいい夫婦なんだよね、確か
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父・三郎の実家を訪ねた 板橋区
枕製造・太田商店の店主 光のいとこにあたる太田茂さん
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茂さん:
これはモーテルの枕なんです
よだれが目立たない、この色は
だから皆さんモーテルに行ったら(カバーを)ちょっと引っ剥がしてください
これがあればうちで作った枕です
枕製造は茂さんで三代目
先代は茂さんの父・長男の五郎
その弟が光の父・三郎
そばがらから羽毛まで根強いファンに支えられてきました
そもそも太田家はなぜ枕の製造に携わることになったのか
(そば枕ってあんな風に作るんだ/驚
茂さん:勘三郎さんが失敗した話 米相場でしょう
昭和22年に亡くなった初代店主 祖父 太田勘三郎
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近所に暮らす茂さんの一番上の姉 萩原一枝さん
光とは三十歳歳が離れたいとこ
カズエさんの元には太田家のルーツにかかわる手がかりが残されていました
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カズエ:
三郎自身が「自録」と言って自分で作ったの
家族史を自分で調べるだけ調べたんでしょうね
平成11年 光の父三郎が71歳の時にまとめた自伝
カズエさんをはじめ近親者だけに配っていました
(こういうのうちでも残してくれないかな
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その書き出しは三郎の出生から始まります
父勘三郎、母みよの三男、昭和3年 静岡県磐田郡中泉520番地に生まれる
現在の磐田市 JR 磐田駅前の商店街の一軒
「わぐちや」瀬戸物店
カズエさん:
おばあさんが瀬戸物屋さんをやっていたというんだけど、内職みたいに
勘三郎さんが何をやっていたかがよくわかんないんですけどね
勘三郎は瀬戸物屋を妻に任せて、自分は別の仕事をしていたと言う
本籍地は現在の磐田市和口
江戸時代から農業が主体のこの地域では太田勢が多く
その理由はその近くを流れる太田川にあると考えられています
この地域の太田家の本家、太田タカオさん、ヨシコさん夫婦
光の家との繋がりは分からないと言います
明治の地図を頼りに旧住所350番地を案内してもらいました
勘三郎一家が所有する家と田んぼは周辺に比べてわずかな面積でした
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タカオさん:
うなぎの寝床だよね、昔で言う
田んぼがないとどうしても生活できないもの
明治8年 勘三郎はここで生まれる
父は新吉、母はとの、妹たきの4人家族
明治17年 大黒柱の新吉が急死
この時、勘三郎は9歳 妹はわずか3歳
磐田市歴史文書館
残された家族に関する記録が見つかりました
「寄留簿」
寄留という言葉自体ちょっと聞きなれないかもしれませんが
今で言うと転出届みたいなものですね
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ここに太田勘三郎さんというお名前が出ています
ここに届出を出したのが明治19年12月6日
太田家の新たな戸主となったのはわずか11歳の勘三郎
寄留本によると母とのは、明治19年に矢口村の土地を手放します
女手一つで農業をするのは限界でした
転出先は同じ山名郡の福田ふくで村
職員:
明治19年という時代は福田では織物産業がちょうど勃興する時期でして
東北地方とかからもこの福田に女工さんとして働きに来た
母親とのさんがこの福田に住んで女工として働いたのではないかと
現在は数軒が営業するのみとなっています
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とのは家計を支えるため機織り工場で働きました
そして11歳の勘三郎は、岩田で米を中心に扱う鳥居商店へ丁稚奉公に出ます
以来10年にわたって懸命に働くと、その仕事ぶりが認められます
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カズエさん:
鳥居さんのお米屋さんで番頭さんをやっていたという話は聞いたんですけど
おじいさんはとにかく真面目に仕事をしていた
勘三郎は数字に強く、番頭格にまで出世しました
明治28年 店主 鳥居重次郎の長女はなと結婚
四人の娘に恵まれ、磐田の中心部のほど近くに家を構えました
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明治41年 妻はなが結核で急死
勘三郎は鳥居商店をやめます
残された娘たちのためにとみよと再婚しました
そして勘三郎が新たに始めたのは米の先物取引
長年米を扱ってきた知識を生かし、ひと儲けしようとしたのです
以来、日本橋にある東京米穀商品取引所に頻繁に通うようになります
米相場の傍ら勘三郎は新たな商売を始めます
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勘三郎と前妻はなの孫 村田志づさん(96) 光のいとこ
当時の商品をシズさんが今も持っていました
シズ:
残り物だと思うんですけど
何だかかわいいからお母さんにもらっておいた
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勘三郎が瀬戸物を仕入れていたのも日本橋
当時、隅田川と箱崎川に挟まれたこの地域は瀬戸物問屋も集中していました
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シズ:
こういうものの半端物が売っているところがある
本物をまともに売るんじゃなくて半端ものがあるんじゃないですか
そういう商いをしていると安くてそういう出物があったかもしれない
私の母親が売っていたらしいですね
勘三郎は磐田の自宅で瀬戸物やまぐち屋を開業
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しかし店は妻と娘たちに任せきり
自分は本業の米相場と株取引にのめり込みます
父の自伝:
勘三郎は四六時中外出し、家にはあまり寄りつかず
一家の家計はもっぱら母の商売で賄っていたようである
しかし時代は大きくうねります
昭和2年(1927)金融恐慌
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東京に起こった取り付け騒ぎは全国に拡大し
多くの銀行が休業に追い込まれました
しかもこの年豊作だったこともあり
米相場も大暴落したのです
瀬戸物屋の売り上げだけでは立ち行かなくなった勘三郎
太田家は借金取りに追われるようになりました
カズエさん:
借金をどうしたんだか分からないけど
相場で失敗して、東京へ逃れてきた
娘の家には仕事場があったから
娘を頼ってきたんじゃないのかな
太田家は夜逃げ同然で磐田を離れる
昭和3年 その厳しい状況の中で生まれたのが三男の三郎 光の父
ちなみにちょっと変わった名付け方の理由
自伝:
長男が五郎というのは、上に4人の子どもがいたので
5番目という意味があったと思われるが
次に男子が生まれて、はたと困って苦し紛れに四郎と名付けたと思われる
だから当然次に生まれる男子は三郎ということになる
全く順序が逆になってしまった(w
勘三郎は生まれたばかりの三郎を連れて東京・板橋へ
前妻との間にできた娘が枕販売を営む家に嫁いでいたため、その家に身を寄せた
今田:いかがでしたか?
光:
全然知らなかった
全体的に江戸時代の生まれだと思うんだけど
江戸時代に“との”って名前をつけるって凄いよね!
昭和3年
金融恐慌によってふるさと静岡を追われた祖父・勘三郎
東京で枕販売をしていた三女わさの嫁ぎ先に太田家は家族9人で世話になった
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家族が暮らしていた場所は、古くから鉄工所や町工場が立ち並ぶ地域
ここで勘三郎(53歳)は家族で枕作りを始めます
自分の失敗から招いた東京の暮らし
心を入れ替えて働きます
カズエさん:
とにかく真面目
それで枕の売れ行きも良くなったんでしょうから
注文が来るとそこで作って下谷まで配達に行って
そこでこのオート三輪で、これを四郎さんが運転して、荷物を持って
オート三輪の上でポーズを取る三郎とカズエ
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陸軍にも納めていたことから売上が順調に伸びていきました
再び生活が上向いてきた太田家
昭和16年 三郎は父・勘三郎の強い勧めから
板橋の進学校 東京府立第9中学校へ入学しました
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昭和16年12月 太平洋戦争が勃発
(場所的にも時代的にも私の父親と重なる部分も多い
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三郎の二人の兄は陸軍の通信隊に配属
三郎は学校の軍事教練に参加
そこである事件を起こします
銃の部品を落としてしまったのです
「三八式歩兵銃」
落としたのは弾倉底板と呼ばれる重要部品でした
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自伝:銃は天皇陛下からお預かりした大切なものという考え方からすれば死刑である
家族に話せず、学校にも行けず
ひたすら家の物置に隠れていた三郎を見つけたのは父・勘三郎でした
勘三郎は紋付袴に着替え、学校へ急行します
勘三郎:申し訳ありませんでした!
弁解は一切なし
ただ息子の失態を土下座で詫び続けました
子ども達がまっとうな人生を歩めるようにと全力で守ってきた勘三郎
三郎には強烈に覚えている父の言葉があります
「俺は以前は体を動かさずにいかに金儲けをしようかということばかり考えていた
もっと体を動かせ
体を動かすことで稼がなければ金は残らないということがわかった」
昭和20年 三郎が東京農林専門学校(現在の国立東京農工大学)へ進学
そのまま終戦を迎えます
軍隊に入っていた五郎、四郎も空襲を免れた太田家に帰ってきました
昭和22年 勘三郎死去
新たに家長となった長男・五郎は
GHQ による繊維の統制が緩和されたことを機に
昭和23年 枕専門店「太田商店」を再開します
二十歳になった三郎は、これ以上兄の世話になるわけにはいかないと自立する決意をする
しかしやりたいことは定まらず、画家、落語家、映画監督を志しました
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「体を動かすことで稼がなければ金は残らない」
父の教えを胸に三郎は自分に合った仕事を探し続けました
茂さん:いろんなことをやって成功していないんだよね
それから5年
絵が得意だった三郎は内装デザインの仕事に就きます
銀座、赤坂の喫茶店の内装を始めました
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そんな矢先、三郎が仕事先で偶然出会った一人の女性 熊木瑠智子
後の光の母となる女性でした(可愛い
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今から60年前
TBS の前身 KR テレビで人気を博した素人参加番組「源平芸能合戦」
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勤めていた会社でバンドを組んで出場
唯一の女性ながらアコーディオンの腕前を堂々と披露したのは後の光の母
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●母方・熊木家
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ウシゴロウの戸籍によると本籍地は新潟県
現在の上越市大潟区雁子浜です
日本海に面した人口600の集落
現在は付き合いのある親戚はいません
今回の取材でウシゴロウの本籍地に今も熊木家が住んでいることがわかりました
現在の主 熊木松男さんです
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松男さん:
(太田光の親戚筋と初めて聞いて
考えられなかったですよね
ましてやこんな田舎だから
びっくりしたけれども、よかったねw
熊木家は代々次男の筋がこの土地を守ってきたと言います
長男のウシゴロウは31歳で家を出ました
幕末から多くの村人が杜氏として出稼ぎをしていた
背景には厳しい環境がありました
集落自体が砂丘の上にあるため農業をするには難しい土地
さらに日本海から吹く強風の影響で漁業で生計を立てるのも困難でした
上越市公文書センター
ウシゴロウの寄留届けが残されていました
杜氏として冬に埼玉へ出稼ぎをしていたウシゴロウは
明治29年、妻と2人の子どもを連れて転出します
入間の酒屋で働くことにしたのです
公文書センターには故郷を離れ
後に関東で酒屋として独立した村人たちの記録が残されていました
大正6年
ウシゴロウは酒屋として独立し、所沢で自分の店を持つまでになります
そんなウシゴロウの三男が埼玉で生まれた ブゾウ のちの光の祖父です
ウシゴロウはこれからの時代は教育だと
ブゾウに私学の商業学校で学ばせ、バイオリンまで学ばせる徹底ぶり
娘のマリコさんとヒロミさん
ブゾウは音楽も好きだったといいます
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島崎藤村についての記事があると切り抜いて
スクラップしていたというのは姉が言っていました
門をたたいて書生になりたいと言って
もちろん断られたけれども
昭和2年 三男のブゾウは北区・王子に自分の酒屋を構える
仕事の傍ら文学、音楽に自分の趣味を楽しみました
昭和8年 長女が誕生(後の光の母)
Q:すごく珍しいお名前ですね?
ミチル→チルコ→ルチコなんです
「青い鳥」のチルチルミチルから来ていると聞いています
姉妹の中でもルチコは特に活発な女の子でした
覚えているのは股火鉢してね
小さい火鉢があって、そこに乗っかってあたるんですよ
暖房器具がない時代ですから、すごく寒いんですよ
上に乗っかるとしたからいい考えよねw
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ルチコはおしゃれをしてブゾウとともに銀座に出かけるのが大好きでした
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王子の家にはオルガンがあったんです
それを弾いてみんなで歌ったりとか 父が好きだった
アコーディオンとかバイオリンとか持ってきたら♪天然の美 を弾いたんですよ
「あ、サーカスだ」ってね
だからみんな音楽が好きだった
うちはだいたいみんな音楽をやる人たちばかり
アコーディオンが得意だったルチコ
音楽以外にも夢を抱くようになります
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それが女優でした
高校時代は演劇部、卒業後は劇団の研究生として日々稽古に励むようになったのです
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二十歳になったら劇団の学費を稼ぐため
喫茶店でアルバイトを始めます
その店では一人の男性が働いていました
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どうも赤羽の「にんじん」という喫茶店みたいなところで
アルバイトみたいなことをやっていて
そこに三郎さんがバーテンダーをしていて
太田三郎25歳
本職は内装デザイナー
喫茶店の工事が終わり、その後の仕事がなかったことからそのまま店でアルバイトをしていた
演劇の話で盛り上がり、二人はすぐに惹かれ合う
昭和32年 結婚
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三郎はルチコのためにも生活を安定させようと友人達と新たに内装デザイン事務所を設立
ルチコも劇団をやめ、銀座の大手缶詰会社に就職し家計を助けました
今も会社にはルチコが書いた社内報が残っていました
国分グループ本社
昭和34年6月に発刊されたもので
他人を装ってルチコ自身が書いた自己紹介文です
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自己紹介文:
貿易部の紅二点のうちの一人、太田ルチコ女史です
彼女は昼間は大した仕事もしないくせに
5時を過ぎると俄然忙しくなります
コーラスだ、楽団の練習だというわけで
いったい何しに会社に来ているのかわかりませんね
結婚から5年後
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三郎は学生時代の友人と資金を出し合い
埼玉県上福岡市に新居を構えます
1階部分は友人宅、2階部分が三郎とルチコの新居になりました
昭和40年5月 待望の男の子が誕生 名前は光
三郎が最も好きな漢字をあてました(いい名前だね
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光の手形足形がついたマグカップ
三郎とルチコは嬉しさのあまり100セット作りました
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爆笑する光:
迷惑だったろうね 気持ち悪いもんね!
爆笑問題の身内って聞いた3人のおじさんも完全に戸惑ってたねww
昭和43年 三郎(40)は新たな内装デザイン事務所「三光社」を設立
自分と愛息子の名前それぞれ一文字ずつ取りました
(なんだか急に太った!
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会社を立ち上げるにあたり三郎には一つの戦略がありました
日本麺類団体連合会?の協力会社に食い込んだのです
かつての三郎の部下で内装デザイナーのカニさん:
蕎麦屋さんの仕事をやろうじゃないかと
駅前食堂というのが昔あって
パイプの椅子と机というスペース
とにかく椅子とテーブルが置いてあるのが食堂だという
そういうことじゃなしに
やっぱり照明器具の下にちゃんと席が割り振ってあったりとか
壁の面がちょっと面白く仕上げてあったりとかデザインしていくわけですよね
三郎が手がけるデザインは、当時の蕎麦屋では珍しかったモダンな和風が定番
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間接照明で温かみのある空間を演出
座席も一人用と複数人用に分け
客が気兼ねなく食事を楽しめるようにしました
その中の一軒 現在も千代田区で営業を続ける蕎麦屋が今もある
店側の細かいニーズに必死に応えようとする三郎の姿勢が業界で評判を呼びます
さらに店の看板を自ら書くサービスも始めました
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三郎自身が書いた下書きの数々
書道が素人だった三郎は、仕事終わりに教室へ通い夢中で勉強しました
高名な書道家に依頼すれば費用がかさむ
手書き看板を自ら手掛けるためでした
(“高名な書道家”と思ったよ
カニさん:
やっぱり好きだったんですよね
社員旅行に行って、途中で帰っちゃうんです
書道の教室があるからって
社長がいなくなるんだから
それくらい打ち込んでいたんですよねw
昭和50年
ある日、突然一人の男が三郎の元を訪れてきました
三郎が手掛けた店から紹介されたという33歳の料理人
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後に高級焼肉チェーン「叙々苑」を立ち上げる新井泰道さんです
「一切の内装は三郎さんに任せた」
新井さんの決断に三郎は奮起します
それまでの焼肉屋といえば店内に煙が充満しているというイメージ
三郎はそこを一新した
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新井:
下は絨毯が敷いてあるんです
この人は何を考えたんだか分からないけど
私に「社長 六本木だから 銀座の女が派手に来るから」っていうんですよ
私は新宿から来たので分からないです
それで出来上がったら、天井は青だし、下は真っ赤な絨毯だし
しょうがないから一輪ざしを置いて
女性が喜ぶような店に出来上がった
それで男性のお客さんが入ってきたら出てっちゃうんです
「どうしたんですか?」
「いや、焼肉屋さんと間違えた」
「うち焼肉屋ですよ」
三郎の狙いは大当たり
女性客も楽しめる斬新なデザインと新井さんの味
店舗はやがて全国へ広がった
そして看板も三郎が書きました
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新井:
もしあの時に太田さんじゃなくて
一流かもしれないが普通の設計者、一流会社と知り合ったとしたら
おそらく今日はないでしょうね
安く店を作ってくれたかも分かりませんけど
普通のイメージの焼肉屋さんを作ったでしょうね
だから仕事はお互い楽しかったですよ
内装工事の支払いの時に「高いじゃん」ということで喧嘩して
泣かせちゃったことありますけどねw
嘘泣きかもしれないんですよ、正直言って
あの人、嘘泣きだと思う、もしかしたら
面白いんだからw
三郎は多忙を極めた
会社を青山に移転させ、帰宅は毎晩深夜になった
それでも三郎がルチコと光を連れて欠かさず出席していたのが
正月や盆に実家で開かれる太田家の集まり
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光:
全員酔っ払ってるから、行くと
親父がそこに合流して、一番上座に座って
親父がうわーっと喋り出して
子どもにとっては恐怖でしかないんですよ
俺は引っ込み思案でああいうことできない
すごいなあと思いながら見てる
あんな風にみんなの前で話せたらというのがあるから
(神経質な光は毎晩なかなか寝付けないため
母は「くまのプーさん」を毎晩何ページずつかに区切って
読んでもらったのは覚えてるんですけど
感情過多な朗読じゃないんですよ 玄人好み
ワクワクして、その次はどんなことが起きるんだろうみたいな
昭和59年 光は日本大学芸術学部演劇学科へ入学
(スカが流れてる♪♪♪
両親が好きだったチャップリンの映画を幼い頃から見ていた光は
喜劇の道に進みたいと思うようになった
この時、同じ学科に入学した同級生が後の相方・田中裕二さん
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昭和59年 同級生となり、すぐに意気投合した二人
田中さんはよく太田家に遊びに行ったという
田中:
料理が美味しいんですよ
いつも何かご馳走してくれて
「光、あんたはね」っていう感じのお母さん
お父さんは俺のことを「小僧」って呼んでたんですけど
普通あまり息子の友達に言わないじゃないですか
なんかそういうなんとも言えない友達っぽい時もあったり
すごく社交的な人なところもあった
大学生活に疑問を感じたのは大学2年の時
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このまま大学にいても喜劇やお笑いの世界に行けるのか
という焦りを覚えるようになった光は三郎に電話をかける
その時の電話のやり取りを部下のカニさんが偶然聞いていた
カニ:
直接電話で「学校を辞める お笑いをやる それで舞台に立たなきゃ 今なんだ」
というようなことを光は一生懸命訴えてて
おやじはおやじで
「今の芸人は大学くらい出ておかなきゃだめだ
せっかく入ったのに、なんだお前辞めるなんて」ってなんとか止めようとしているし
やはり一般の我々としては、そういうお笑いの世界も知らないし、芸能界も知らないから
自分の想像外の所だから、やっぱり心配しますよ
結局、三郎は許しませんでした
昭和62年 光は大学を中退
両親が暮らす埼玉の自宅には寄り付かなくなった
光は先に大学を中退していた田中さんに声をかけて、昭和63年アマチュアのコント大会に出場
会場は爆笑に包まれた
その反響に驚いたのは誰よりも本人たちでした
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田中:
バイト先に太田から電話がかかってきて
「今フジテレビの人から電話かかってきた
『ひょうきん族』のスタッフの人からかかってきて
今度は若手で『ひょうきん族』みたいな
深夜にウッチャンナンチャン中心にやるからそれに出てくれって来たぞ」
「マジで?! フジテレビなんて行ったこともねえし どういうこと?!」
それをコンビニの事務室で電話を受けるんですけど
昭和63年 爆笑問題デビュー
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この年、大手芸能事務所と契約し、爆笑問題として正式デビュー
いきなりテレビのレギュラー番組も決まりお茶の間に登場
(さっきからずっとスカパラが流れてる!
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太田家の親戚たちは驚いた
光のそれまでの印象といえば常に人見知り
茂さん:
「漫才やるんだって?!」という話になったわけですよ
「だって喋れないじゃん、あいつ」
「喋るらしいよ」爆×5000
翌年、光には運命の出会いがあった 妻 太田光代さん
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当時、同じ事務所に所属するタレントでした
正月 ミツヨさんのアパートで開かれた若手芸人たちの宴会
お開きになっても最後まで帰ろうとしない光
仕方なくミツヨさんは光を連れて銭湯に行った
ミツヨ:
どうせ一回だから、中で石鹸とかちっちゃいの売ってるから
タオルだけ持たせたんです
そしたらなんか洗面器に、ボトルのシャンプーのでかいやつを買ってきて
箱に入ってる石鹸と、ゴシゴシ洗うナイロンのあれまで買って
全部持って出てきたんです
「こいつ、居付く気だ」と思いました、その時w
その日以来、光はミツヨさんのアパートから帰ろうとしませんでした
ミツヨ:
「家はどこっ?」て聞いたら「上福岡」って言ったんですよ
私は地理が全然駄目で福岡だって思ったんです
芸人ってそういう人もいますから
出てきて住むところがないんだ、この人と思って
なるほどそれで私の所に居付いたんだと思ったんですよね
だからずっと私は福岡の人だと思ってたんです、半年以上
埼玉に上福岡っていうところがあるんですね
びっくりしました
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平成2年 結婚
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それぞれの親には内緒でした
光代さんは妻として太田家に挨拶ができないことに後ろめたさを感じていました
そこで光は実家に電話をかけます
ミツヨ:
ニッポン放送に仕事に行って帰ってきた時にものすごいへこんでたんです
「どうしたの?」って言ったら
親に電話したらお父さんにものすごい怒られたんですって
「お前は一体何をやってるんだ
俺の目の黒いうちは、お前には勝手なことをさせん」
って言ってガシャンて切られたらしいんです
お父さんにそんなこと言われたのは多分初めてですね
ほとんど喋ってないから
さらに光たちに大きな落とし穴が待ち受けていました
デビューから波に乗る爆笑問題は
ミツヨさんが止めるのも聞かず所属事務所を1年半で独立
結果仕事が激減
ミツヨ:
前にたけしさんがいた事務所だから(!?
その事務所しか使えないキャッチフレーズが使えたんです
「たけしの再来」という風に言われたんですね
「なんで最初から好きなことができないんだ」って言う
だから天狗です
早いうちにそういう風に言われちゃったから
タレントを続けるミツヨさんのわずかな収入だけが頼りとなった光
夫婦でテレビを見ていた時、さらなる追い討ちが・・・
ミツヨ:
クイズ番組で「爆笑問題 続々登場」というワードが出てきたんです
爆笑な問題がいっぱい出てくるよ、だったんだけど
私もビクッとなったくらいなんですけど
本人にしてみれば、もう爆笑問題が忘れられてる ワードとして
光:
俺らのことを気にしてれば、そういう使い方をしないだろうなと思って
俺らは完全にテレビから忘れられたんだな
ちょっとショックだった
(この辺の事ってみやじくんと話してなかったっけ?
・エレファントカシマシ@SONGS #428
光:
本当に仕事があれば何でもやりたかったし
ただとにかくネタをもう1回一からやんないとというのは
そこでウケなきゃ話にならないって
光はどんな仕事でもやる覚悟でした
平成5年 挑んだのは「NHK 新人演芸大賞 笑いのスター誕生」
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今更新人としてエントリーするのかと言う周囲の声には耳を貸さず
光は新作の社会風刺ネタを次々書き上げました
新人演芸大賞を受賞
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実はこの日、父・三郎は静岡磐田市にある菩提寺全久院で法事に参加していました
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ケンシロウさん(光のいとこ):
法事の真っ最中、突然三郎が切り出した
「今日 NHK の放送があるんでテレビを見たいんだ」という話が始まって
まさかそこで光の漫才を見るとは思わなかった
法事は中断 親戚たちは控え室のテレビで光の優勝に興奮しました
ケンシロウさん:
三郎は嬉しくてしょうがないのを抑えている感じのイメージですね
一番前でテレビを見入ってるっていうイメージです
住職:
法事の時にそういう場面だったというのは
何か縁があったとしか私も思いつかないというか
おじいさんがここでお祀りされているということで
多分見守っていてくれたんじゃないですかね
翌月 妻のミツヨさんがマネージャーとなり新たな事務所を設立
ゼロからの再出発を誓いました
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光:
迷惑かけっぱなしだった
親父は怒る人じゃなかった
怒ったところを見たことがない
結婚のこととか別に気にしないと思ってたら
意外と家族のこととかちゃんとしろって言う人だったですね
今田:どうですか 今日ご自身のファミリーヒストリーを見てみて
光:
知らないことがいっぱいあって
米相場で失敗したとか興味深い 面白かったです
親父とお袋に生きて見せてやりたいと思ったね
多分知らないだろうから
勘三郎さんの言葉とか
どういう経緯でそうなったとか
知りたかったんじゃないかなと思って
視覚障害者への朗読
ルチコは晩年まで情熱を傾けていたものがある
障害者に対面で読み、会場へ来られない人には
テープに吹き込んで渡すボランティア活動
ルチコはその中で、朗読の講師役を務めていました
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(そんな仕事があるのか/驚
楽しそうと思ってチラっと調べたら、ただ読むだけじゃなく
地名など間違えないよう内容を理解して、訓練が必要な大事な仕事だと分かった
益子さん:
決して優しくはないですw
ところがある作品を読んだ時に
「益子さん、どうしたの? すごい上手になった」って言われて
その時からちょっと「私も読んでもいいんだな」というような感じをもちました
太田さんに褒められたということはすごく嬉しかったです
ルチコ自身が吹き込んだ朗読のテープが今も残っていることがわかりました
(どのタイトルを見ても知らないものばかり
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清子さんと落合さんは、ルチコから何度も本を読んでもらっています
落合さん:
やっぱりこの人は素晴らしい読み方をしてるんだなあと感じました
晩年のほうは「ちょっと入れ歯が下がってきちゃう」なんて言ってましたけれどもw
平成24年 父・三郎 死去 83歳
平成28年 母ルチコ 死去 81歳
(結構最近なんだ
内装業を引退後も足しげく通っていた書道教室
教室が保存する映像に練習に励む三郎の姿が残っています
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晩年、三郎はコンテストに出展していました
その作品が「爆笑問題とは一体何者なるぞ」
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三郎とともに書道を学んだ福田さん(現在は講師):
おそらくこれは太田さんの体力が少し落ちてきた時じゃないかな
バリバリの時って張りのあるすごい力を持ってるんですね
少し丸くなってきて筆が自在ではないと思います
やっぱりなんか思い入れだと思うんですよ
これを息子に見せたいと思ったかどうかということよりも
ただ彼は書きたかったじゃないですかね
やっぱり息子が心配 それはあると思いますね
でもやっぱり可愛かったんだろうね
光:
かっこよすぎませんか 終わり方が
この親の子だなっていうのははっきりしたw
最後にしんみりする曲がいいよね
太田光さんは、時事問題をウィットに富んだ笑いに変え
時代の先頭を走り続けてきました
今回初めて自分のルーツと向き合います
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太田:
(モノクロの写真を見せて
そっくりでしょ?
笑っちゃうよね
俺かと思うよね
光さんの亡き父 太田三郎
都内で内装業を営み、妻のルチコとともに一人息子の光さんを育てました
三郎が太田家のルーツについて語ったこととは?
太田:
何も知らないです
親父の実家が枕屋をしていましたねw
そこまでしか知らないですよ
東京 板橋で今も枕製造を続ける父の実家
光さんの幼少期、毎年正月と盆には親戚中が集まる賑やかな一家だったといいます
光:
その中心に親父がいました
親父が面白いことを言う人っていう
しかも親父の周りにはいっぱい人がいるっていうのはすごく憧れだった
親父とお袋の若い頃がどうだったかとかには興味がありますけどね
俺の知らないことがいっぱいあるだろうし
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光:ルーツは多分猿だったとは思うんだけどw
今田:そこまではうちは遡らないんで(ww
奥さんの光代さんがすぐそばで見ている
初めて見た 可愛い人
とっても仲がいい夫婦なんだよね、確か
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父・三郎の実家を訪ねた 板橋区
枕製造・太田商店の店主 光のいとこにあたる太田茂さん
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茂さん:
これはモーテルの枕なんです
よだれが目立たない、この色は
だから皆さんモーテルに行ったら(カバーを)ちょっと引っ剥がしてください
これがあればうちで作った枕です
枕製造は茂さんで三代目
先代は茂さんの父・長男の五郎
その弟が光の父・三郎
そばがらから羽毛まで根強いファンに支えられてきました
そもそも太田家はなぜ枕の製造に携わることになったのか
(そば枕ってあんな風に作るんだ/驚
茂さん:勘三郎さんが失敗した話 米相場でしょう
昭和22年に亡くなった初代店主 祖父 太田勘三郎
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近所に暮らす茂さんの一番上の姉 萩原一枝さん
光とは三十歳歳が離れたいとこ
カズエさんの元には太田家のルーツにかかわる手がかりが残されていました
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カズエ:
三郎自身が「自録」と言って自分で作ったの
家族史を自分で調べるだけ調べたんでしょうね
平成11年 光の父三郎が71歳の時にまとめた自伝
カズエさんをはじめ近親者だけに配っていました
(こういうのうちでも残してくれないかな
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その書き出しは三郎の出生から始まります
父勘三郎、母みよの三男、昭和3年 静岡県磐田郡中泉520番地に生まれる
現在の磐田市 JR 磐田駅前の商店街の一軒
「わぐちや」瀬戸物店
カズエさん:
おばあさんが瀬戸物屋さんをやっていたというんだけど、内職みたいに
勘三郎さんが何をやっていたかがよくわかんないんですけどね
勘三郎は瀬戸物屋を妻に任せて、自分は別の仕事をしていたと言う
本籍地は現在の磐田市和口
江戸時代から農業が主体のこの地域では太田勢が多く
その理由はその近くを流れる太田川にあると考えられています
この地域の太田家の本家、太田タカオさん、ヨシコさん夫婦
光の家との繋がりは分からないと言います
明治の地図を頼りに旧住所350番地を案内してもらいました
勘三郎一家が所有する家と田んぼは周辺に比べてわずかな面積でした
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タカオさん:
うなぎの寝床だよね、昔で言う
田んぼがないとどうしても生活できないもの
明治8年 勘三郎はここで生まれる
父は新吉、母はとの、妹たきの4人家族
明治17年 大黒柱の新吉が急死
この時、勘三郎は9歳 妹はわずか3歳
磐田市歴史文書館
残された家族に関する記録が見つかりました
「寄留簿」
寄留という言葉自体ちょっと聞きなれないかもしれませんが
今で言うと転出届みたいなものですね
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ここに太田勘三郎さんというお名前が出ています
ここに届出を出したのが明治19年12月6日
太田家の新たな戸主となったのはわずか11歳の勘三郎
寄留本によると母とのは、明治19年に矢口村の土地を手放します
女手一つで農業をするのは限界でした
転出先は同じ山名郡の福田ふくで村
職員:
明治19年という時代は福田では織物産業がちょうど勃興する時期でして
東北地方とかからもこの福田に女工さんとして働きに来た
母親とのさんがこの福田に住んで女工として働いたのではないかと
現在は数軒が営業するのみとなっています
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とのは家計を支えるため機織り工場で働きました
そして11歳の勘三郎は、岩田で米を中心に扱う鳥居商店へ丁稚奉公に出ます
以来10年にわたって懸命に働くと、その仕事ぶりが認められます
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カズエさん:
鳥居さんのお米屋さんで番頭さんをやっていたという話は聞いたんですけど
おじいさんはとにかく真面目に仕事をしていた
勘三郎は数字に強く、番頭格にまで出世しました
明治28年 店主 鳥居重次郎の長女はなと結婚
四人の娘に恵まれ、磐田の中心部のほど近くに家を構えました
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明治41年 妻はなが結核で急死
勘三郎は鳥居商店をやめます
残された娘たちのためにとみよと再婚しました
そして勘三郎が新たに始めたのは米の先物取引
長年米を扱ってきた知識を生かし、ひと儲けしようとしたのです
以来、日本橋にある東京米穀商品取引所に頻繁に通うようになります
米相場の傍ら勘三郎は新たな商売を始めます
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勘三郎と前妻はなの孫 村田志づさん(96) 光のいとこ
当時の商品をシズさんが今も持っていました
シズ:
残り物だと思うんですけど
何だかかわいいからお母さんにもらっておいた
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勘三郎が瀬戸物を仕入れていたのも日本橋
当時、隅田川と箱崎川に挟まれたこの地域は瀬戸物問屋も集中していました
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シズ:
こういうものの半端物が売っているところがある
本物をまともに売るんじゃなくて半端ものがあるんじゃないですか
そういう商いをしていると安くてそういう出物があったかもしれない
私の母親が売っていたらしいですね
勘三郎は磐田の自宅で瀬戸物やまぐち屋を開業
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しかし店は妻と娘たちに任せきり
自分は本業の米相場と株取引にのめり込みます
父の自伝:
勘三郎は四六時中外出し、家にはあまり寄りつかず
一家の家計はもっぱら母の商売で賄っていたようである
しかし時代は大きくうねります
昭和2年(1927)金融恐慌
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東京に起こった取り付け騒ぎは全国に拡大し
多くの銀行が休業に追い込まれました
しかもこの年豊作だったこともあり
米相場も大暴落したのです
瀬戸物屋の売り上げだけでは立ち行かなくなった勘三郎
太田家は借金取りに追われるようになりました
カズエさん:
借金をどうしたんだか分からないけど
相場で失敗して、東京へ逃れてきた
娘の家には仕事場があったから
娘を頼ってきたんじゃないのかな
太田家は夜逃げ同然で磐田を離れる
昭和3年 その厳しい状況の中で生まれたのが三男の三郎 光の父
ちなみにちょっと変わった名付け方の理由
自伝:
長男が五郎というのは、上に4人の子どもがいたので
5番目という意味があったと思われるが
次に男子が生まれて、はたと困って苦し紛れに四郎と名付けたと思われる
だから当然次に生まれる男子は三郎ということになる
全く順序が逆になってしまった(w
勘三郎は生まれたばかりの三郎を連れて東京・板橋へ
前妻との間にできた娘が枕販売を営む家に嫁いでいたため、その家に身を寄せた
今田:いかがでしたか?
光:
全然知らなかった
全体的に江戸時代の生まれだと思うんだけど
江戸時代に“との”って名前をつけるって凄いよね!
昭和3年
金融恐慌によってふるさと静岡を追われた祖父・勘三郎
東京で枕販売をしていた三女わさの嫁ぎ先に太田家は家族9人で世話になった
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家族が暮らしていた場所は、古くから鉄工所や町工場が立ち並ぶ地域
ここで勘三郎(53歳)は家族で枕作りを始めます
自分の失敗から招いた東京の暮らし
心を入れ替えて働きます
カズエさん:
とにかく真面目
それで枕の売れ行きも良くなったんでしょうから
注文が来るとそこで作って下谷まで配達に行って
そこでこのオート三輪で、これを四郎さんが運転して、荷物を持って
オート三輪の上でポーズを取る三郎とカズエ
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陸軍にも納めていたことから売上が順調に伸びていきました
再び生活が上向いてきた太田家
昭和16年 三郎は父・勘三郎の強い勧めから
板橋の進学校 東京府立第9中学校へ入学しました
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昭和16年12月 太平洋戦争が勃発
(場所的にも時代的にも私の父親と重なる部分も多い
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三郎の二人の兄は陸軍の通信隊に配属
三郎は学校の軍事教練に参加
そこである事件を起こします
銃の部品を落としてしまったのです
「三八式歩兵銃」
落としたのは弾倉底板と呼ばれる重要部品でした
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自伝:銃は天皇陛下からお預かりした大切なものという考え方からすれば死刑である
家族に話せず、学校にも行けず
ひたすら家の物置に隠れていた三郎を見つけたのは父・勘三郎でした
勘三郎は紋付袴に着替え、学校へ急行します
勘三郎:申し訳ありませんでした!
弁解は一切なし
ただ息子の失態を土下座で詫び続けました
子ども達がまっとうな人生を歩めるようにと全力で守ってきた勘三郎
三郎には強烈に覚えている父の言葉があります
「俺は以前は体を動かさずにいかに金儲けをしようかということばかり考えていた
もっと体を動かせ
体を動かすことで稼がなければ金は残らないということがわかった」
昭和20年 三郎が東京農林専門学校(現在の国立東京農工大学)へ進学
そのまま終戦を迎えます
軍隊に入っていた五郎、四郎も空襲を免れた太田家に帰ってきました
昭和22年 勘三郎死去
新たに家長となった長男・五郎は
GHQ による繊維の統制が緩和されたことを機に
昭和23年 枕専門店「太田商店」を再開します
二十歳になった三郎は、これ以上兄の世話になるわけにはいかないと自立する決意をする
しかしやりたいことは定まらず、画家、落語家、映画監督を志しました
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「体を動かすことで稼がなければ金は残らない」
父の教えを胸に三郎は自分に合った仕事を探し続けました
茂さん:いろんなことをやって成功していないんだよね
それから5年
絵が得意だった三郎は内装デザインの仕事に就きます
銀座、赤坂の喫茶店の内装を始めました
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そんな矢先、三郎が仕事先で偶然出会った一人の女性 熊木瑠智子
後の光の母となる女性でした(可愛い
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今から60年前
TBS の前身 KR テレビで人気を博した素人参加番組「源平芸能合戦」
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勤めていた会社でバンドを組んで出場
唯一の女性ながらアコーディオンの腕前を堂々と披露したのは後の光の母
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●母方・熊木家
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ウシゴロウの戸籍によると本籍地は新潟県
現在の上越市大潟区雁子浜です
日本海に面した人口600の集落
現在は付き合いのある親戚はいません
今回の取材でウシゴロウの本籍地に今も熊木家が住んでいることがわかりました
現在の主 熊木松男さんです
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松男さん:
(太田光の親戚筋と初めて聞いて
考えられなかったですよね
ましてやこんな田舎だから
びっくりしたけれども、よかったねw
熊木家は代々次男の筋がこの土地を守ってきたと言います
長男のウシゴロウは31歳で家を出ました
幕末から多くの村人が杜氏として出稼ぎをしていた
背景には厳しい環境がありました
集落自体が砂丘の上にあるため農業をするには難しい土地
さらに日本海から吹く強風の影響で漁業で生計を立てるのも困難でした
上越市公文書センター
ウシゴロウの寄留届けが残されていました
杜氏として冬に埼玉へ出稼ぎをしていたウシゴロウは
明治29年、妻と2人の子どもを連れて転出します
入間の酒屋で働くことにしたのです
公文書センターには故郷を離れ
後に関東で酒屋として独立した村人たちの記録が残されていました
大正6年
ウシゴロウは酒屋として独立し、所沢で自分の店を持つまでになります
そんなウシゴロウの三男が埼玉で生まれた ブゾウ のちの光の祖父です
ウシゴロウはこれからの時代は教育だと
ブゾウに私学の商業学校で学ばせ、バイオリンまで学ばせる徹底ぶり
娘のマリコさんとヒロミさん
ブゾウは音楽も好きだったといいます
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島崎藤村についての記事があると切り抜いて
スクラップしていたというのは姉が言っていました
門をたたいて書生になりたいと言って
もちろん断られたけれども
昭和2年 三男のブゾウは北区・王子に自分の酒屋を構える
仕事の傍ら文学、音楽に自分の趣味を楽しみました
昭和8年 長女が誕生(後の光の母)
Q:すごく珍しいお名前ですね?
ミチル→チルコ→ルチコなんです
「青い鳥」のチルチルミチルから来ていると聞いています
姉妹の中でもルチコは特に活発な女の子でした
覚えているのは股火鉢してね
小さい火鉢があって、そこに乗っかってあたるんですよ
暖房器具がない時代ですから、すごく寒いんですよ
上に乗っかるとしたからいい考えよねw
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ルチコはおしゃれをしてブゾウとともに銀座に出かけるのが大好きでした
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王子の家にはオルガンがあったんです
それを弾いてみんなで歌ったりとか 父が好きだった
アコーディオンとかバイオリンとか持ってきたら♪天然の美 を弾いたんですよ
「あ、サーカスだ」ってね
だからみんな音楽が好きだった
うちはだいたいみんな音楽をやる人たちばかり
アコーディオンが得意だったルチコ
音楽以外にも夢を抱くようになります
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それが女優でした
高校時代は演劇部、卒業後は劇団の研究生として日々稽古に励むようになったのです
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二十歳になったら劇団の学費を稼ぐため
喫茶店でアルバイトを始めます
その店では一人の男性が働いていました
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どうも赤羽の「にんじん」という喫茶店みたいなところで
アルバイトみたいなことをやっていて
そこに三郎さんがバーテンダーをしていて
太田三郎25歳
本職は内装デザイナー
喫茶店の工事が終わり、その後の仕事がなかったことからそのまま店でアルバイトをしていた
演劇の話で盛り上がり、二人はすぐに惹かれ合う
昭和32年 結婚
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三郎はルチコのためにも生活を安定させようと友人達と新たに内装デザイン事務所を設立
ルチコも劇団をやめ、銀座の大手缶詰会社に就職し家計を助けました
今も会社にはルチコが書いた社内報が残っていました
国分グループ本社
昭和34年6月に発刊されたもので
他人を装ってルチコ自身が書いた自己紹介文です
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自己紹介文:
貿易部の紅二点のうちの一人、太田ルチコ女史です
彼女は昼間は大した仕事もしないくせに
5時を過ぎると俄然忙しくなります
コーラスだ、楽団の練習だというわけで
いったい何しに会社に来ているのかわかりませんね
結婚から5年後
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三郎は学生時代の友人と資金を出し合い
埼玉県上福岡市に新居を構えます
1階部分は友人宅、2階部分が三郎とルチコの新居になりました
昭和40年5月 待望の男の子が誕生 名前は光
三郎が最も好きな漢字をあてました(いい名前だね
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光の手形足形がついたマグカップ
三郎とルチコは嬉しさのあまり100セット作りました
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爆笑する光:
迷惑だったろうね 気持ち悪いもんね!
爆笑問題の身内って聞いた3人のおじさんも完全に戸惑ってたねww
昭和43年 三郎(40)は新たな内装デザイン事務所「三光社」を設立
自分と愛息子の名前それぞれ一文字ずつ取りました
(なんだか急に太った!
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会社を立ち上げるにあたり三郎には一つの戦略がありました
日本麺類団体連合会?の協力会社に食い込んだのです
かつての三郎の部下で内装デザイナーのカニさん:
蕎麦屋さんの仕事をやろうじゃないかと
駅前食堂というのが昔あって
パイプの椅子と机というスペース
とにかく椅子とテーブルが置いてあるのが食堂だという
そういうことじゃなしに
やっぱり照明器具の下にちゃんと席が割り振ってあったりとか
壁の面がちょっと面白く仕上げてあったりとかデザインしていくわけですよね
三郎が手がけるデザインは、当時の蕎麦屋では珍しかったモダンな和風が定番
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間接照明で温かみのある空間を演出
座席も一人用と複数人用に分け
客が気兼ねなく食事を楽しめるようにしました
その中の一軒 現在も千代田区で営業を続ける蕎麦屋が今もある
店側の細かいニーズに必死に応えようとする三郎の姿勢が業界で評判を呼びます
さらに店の看板を自ら書くサービスも始めました
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三郎自身が書いた下書きの数々
書道が素人だった三郎は、仕事終わりに教室へ通い夢中で勉強しました
高名な書道家に依頼すれば費用がかさむ
手書き看板を自ら手掛けるためでした
(“高名な書道家”と思ったよ
カニさん:
やっぱり好きだったんですよね
社員旅行に行って、途中で帰っちゃうんです
書道の教室があるからって
社長がいなくなるんだから
それくらい打ち込んでいたんですよねw
昭和50年
ある日、突然一人の男が三郎の元を訪れてきました
三郎が手掛けた店から紹介されたという33歳の料理人
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後に高級焼肉チェーン「叙々苑」を立ち上げる新井泰道さんです
「一切の内装は三郎さんに任せた」
新井さんの決断に三郎は奮起します
それまでの焼肉屋といえば店内に煙が充満しているというイメージ
三郎はそこを一新した
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新井:
下は絨毯が敷いてあるんです
この人は何を考えたんだか分からないけど
私に「社長 六本木だから 銀座の女が派手に来るから」っていうんですよ
私は新宿から来たので分からないです
それで出来上がったら、天井は青だし、下は真っ赤な絨毯だし
しょうがないから一輪ざしを置いて
女性が喜ぶような店に出来上がった
それで男性のお客さんが入ってきたら出てっちゃうんです
「どうしたんですか?」
「いや、焼肉屋さんと間違えた」
「うち焼肉屋ですよ」
三郎の狙いは大当たり
女性客も楽しめる斬新なデザインと新井さんの味
店舗はやがて全国へ広がった
そして看板も三郎が書きました
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新井:
もしあの時に太田さんじゃなくて
一流かもしれないが普通の設計者、一流会社と知り合ったとしたら
おそらく今日はないでしょうね
安く店を作ってくれたかも分かりませんけど
普通のイメージの焼肉屋さんを作ったでしょうね
だから仕事はお互い楽しかったですよ
内装工事の支払いの時に「高いじゃん」ということで喧嘩して
泣かせちゃったことありますけどねw
嘘泣きかもしれないんですよ、正直言って
あの人、嘘泣きだと思う、もしかしたら
面白いんだからw
三郎は多忙を極めた
会社を青山に移転させ、帰宅は毎晩深夜になった
それでも三郎がルチコと光を連れて欠かさず出席していたのが
正月や盆に実家で開かれる太田家の集まり
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光:
全員酔っ払ってるから、行くと
親父がそこに合流して、一番上座に座って
親父がうわーっと喋り出して
子どもにとっては恐怖でしかないんですよ
俺は引っ込み思案でああいうことできない
すごいなあと思いながら見てる
あんな風にみんなの前で話せたらというのがあるから
(神経質な光は毎晩なかなか寝付けないため
母は「くまのプーさん」を毎晩何ページずつかに区切って
読んでもらったのは覚えてるんですけど
感情過多な朗読じゃないんですよ 玄人好み
ワクワクして、その次はどんなことが起きるんだろうみたいな
昭和59年 光は日本大学芸術学部演劇学科へ入学
(スカが流れてる♪♪♪
両親が好きだったチャップリンの映画を幼い頃から見ていた光は
喜劇の道に進みたいと思うようになった
この時、同じ学科に入学した同級生が後の相方・田中裕二さん
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昭和59年 同級生となり、すぐに意気投合した二人
田中さんはよく太田家に遊びに行ったという
田中:
料理が美味しいんですよ
いつも何かご馳走してくれて
「光、あんたはね」っていう感じのお母さん
お父さんは俺のことを「小僧」って呼んでたんですけど
普通あまり息子の友達に言わないじゃないですか
なんかそういうなんとも言えない友達っぽい時もあったり
すごく社交的な人なところもあった
大学生活に疑問を感じたのは大学2年の時
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このまま大学にいても喜劇やお笑いの世界に行けるのか
という焦りを覚えるようになった光は三郎に電話をかける
その時の電話のやり取りを部下のカニさんが偶然聞いていた
カニ:
直接電話で「学校を辞める お笑いをやる それで舞台に立たなきゃ 今なんだ」
というようなことを光は一生懸命訴えてて
おやじはおやじで
「今の芸人は大学くらい出ておかなきゃだめだ
せっかく入ったのに、なんだお前辞めるなんて」ってなんとか止めようとしているし
やはり一般の我々としては、そういうお笑いの世界も知らないし、芸能界も知らないから
自分の想像外の所だから、やっぱり心配しますよ
結局、三郎は許しませんでした
昭和62年 光は大学を中退
両親が暮らす埼玉の自宅には寄り付かなくなった
光は先に大学を中退していた田中さんに声をかけて、昭和63年アマチュアのコント大会に出場
会場は爆笑に包まれた
その反響に驚いたのは誰よりも本人たちでした
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田中:
バイト先に太田から電話がかかってきて
「今フジテレビの人から電話かかってきた
『ひょうきん族』のスタッフの人からかかってきて
今度は若手で『ひょうきん族』みたいな
深夜にウッチャンナンチャン中心にやるからそれに出てくれって来たぞ」
「マジで?! フジテレビなんて行ったこともねえし どういうこと?!」
それをコンビニの事務室で電話を受けるんですけど
昭和63年 爆笑問題デビュー
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この年、大手芸能事務所と契約し、爆笑問題として正式デビュー
いきなりテレビのレギュラー番組も決まりお茶の間に登場
(さっきからずっとスカパラが流れてる!
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太田家の親戚たちは驚いた
光のそれまでの印象といえば常に人見知り
茂さん:
「漫才やるんだって?!」という話になったわけですよ
「だって喋れないじゃん、あいつ」
「喋るらしいよ」爆×5000
翌年、光には運命の出会いがあった 妻 太田光代さん
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当時、同じ事務所に所属するタレントでした
正月 ミツヨさんのアパートで開かれた若手芸人たちの宴会
お開きになっても最後まで帰ろうとしない光
仕方なくミツヨさんは光を連れて銭湯に行った
ミツヨ:
どうせ一回だから、中で石鹸とかちっちゃいの売ってるから
タオルだけ持たせたんです
そしたらなんか洗面器に、ボトルのシャンプーのでかいやつを買ってきて
箱に入ってる石鹸と、ゴシゴシ洗うナイロンのあれまで買って
全部持って出てきたんです
「こいつ、居付く気だ」と思いました、その時w
その日以来、光はミツヨさんのアパートから帰ろうとしませんでした
ミツヨ:
「家はどこっ?」て聞いたら「上福岡」って言ったんですよ
私は地理が全然駄目で福岡だって思ったんです
芸人ってそういう人もいますから
出てきて住むところがないんだ、この人と思って
なるほどそれで私の所に居付いたんだと思ったんですよね
だからずっと私は福岡の人だと思ってたんです、半年以上
埼玉に上福岡っていうところがあるんですね
びっくりしました
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平成2年 結婚
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それぞれの親には内緒でした
光代さんは妻として太田家に挨拶ができないことに後ろめたさを感じていました
そこで光は実家に電話をかけます
ミツヨ:
ニッポン放送に仕事に行って帰ってきた時にものすごいへこんでたんです
「どうしたの?」って言ったら
親に電話したらお父さんにものすごい怒られたんですって
「お前は一体何をやってるんだ
俺の目の黒いうちは、お前には勝手なことをさせん」
って言ってガシャンて切られたらしいんです
お父さんにそんなこと言われたのは多分初めてですね
ほとんど喋ってないから
さらに光たちに大きな落とし穴が待ち受けていました
デビューから波に乗る爆笑問題は
ミツヨさんが止めるのも聞かず所属事務所を1年半で独立
結果仕事が激減
ミツヨ:
前にたけしさんがいた事務所だから(!?
その事務所しか使えないキャッチフレーズが使えたんです
「たけしの再来」という風に言われたんですね
「なんで最初から好きなことができないんだ」って言う
だから天狗です
早いうちにそういう風に言われちゃったから
タレントを続けるミツヨさんのわずかな収入だけが頼りとなった光
夫婦でテレビを見ていた時、さらなる追い討ちが・・・
ミツヨ:
クイズ番組で「爆笑問題 続々登場」というワードが出てきたんです
爆笑な問題がいっぱい出てくるよ、だったんだけど
私もビクッとなったくらいなんですけど
本人にしてみれば、もう爆笑問題が忘れられてる ワードとして
光:
俺らのことを気にしてれば、そういう使い方をしないだろうなと思って
俺らは完全にテレビから忘れられたんだな
ちょっとショックだった
(この辺の事ってみやじくんと話してなかったっけ?
・エレファントカシマシ@SONGS #428
光:
本当に仕事があれば何でもやりたかったし
ただとにかくネタをもう1回一からやんないとというのは
そこでウケなきゃ話にならないって
光はどんな仕事でもやる覚悟でした
平成5年 挑んだのは「NHK 新人演芸大賞 笑いのスター誕生」
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今更新人としてエントリーするのかと言う周囲の声には耳を貸さず
光は新作の社会風刺ネタを次々書き上げました
新人演芸大賞を受賞
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実はこの日、父・三郎は静岡磐田市にある菩提寺全久院で法事に参加していました
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ケンシロウさん(光のいとこ):
法事の真っ最中、突然三郎が切り出した
「今日 NHK の放送があるんでテレビを見たいんだ」という話が始まって
まさかそこで光の漫才を見るとは思わなかった
法事は中断 親戚たちは控え室のテレビで光の優勝に興奮しました
ケンシロウさん:
三郎は嬉しくてしょうがないのを抑えている感じのイメージですね
一番前でテレビを見入ってるっていうイメージです
住職:
法事の時にそういう場面だったというのは
何か縁があったとしか私も思いつかないというか
おじいさんがここでお祀りされているということで
多分見守っていてくれたんじゃないですかね
翌月 妻のミツヨさんがマネージャーとなり新たな事務所を設立
ゼロからの再出発を誓いました
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光:
迷惑かけっぱなしだった
親父は怒る人じゃなかった
怒ったところを見たことがない
結婚のこととか別に気にしないと思ってたら
意外と家族のこととかちゃんとしろって言う人だったですね
今田:どうですか 今日ご自身のファミリーヒストリーを見てみて
光:
知らないことがいっぱいあって
米相場で失敗したとか興味深い 面白かったです
親父とお袋に生きて見せてやりたいと思ったね
多分知らないだろうから
勘三郎さんの言葉とか
どういう経緯でそうなったとか
知りたかったんじゃないかなと思って
視覚障害者への朗読
ルチコは晩年まで情熱を傾けていたものがある
障害者に対面で読み、会場へ来られない人には
テープに吹き込んで渡すボランティア活動
ルチコはその中で、朗読の講師役を務めていました
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(そんな仕事があるのか/驚
楽しそうと思ってチラっと調べたら、ただ読むだけじゃなく
地名など間違えないよう内容を理解して、訓練が必要な大事な仕事だと分かった
益子さん:
決して優しくはないですw
ところがある作品を読んだ時に
「益子さん、どうしたの? すごい上手になった」って言われて
その時からちょっと「私も読んでもいいんだな」というような感じをもちました
太田さんに褒められたということはすごく嬉しかったです
ルチコ自身が吹き込んだ朗読のテープが今も残っていることがわかりました
(どのタイトルを見ても知らないものばかり
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清子さんと落合さんは、ルチコから何度も本を読んでもらっています
落合さん:
やっぱりこの人は素晴らしい読み方をしてるんだなあと感じました
晩年のほうは「ちょっと入れ歯が下がってきちゃう」なんて言ってましたけれどもw
平成24年 父・三郎 死去 83歳
平成28年 母ルチコ 死去 81歳
(結構最近なんだ
内装業を引退後も足しげく通っていた書道教室
教室が保存する映像に練習に励む三郎の姿が残っています
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晩年、三郎はコンテストに出展していました
その作品が「爆笑問題とは一体何者なるぞ」
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三郎とともに書道を学んだ福田さん(現在は講師):
おそらくこれは太田さんの体力が少し落ちてきた時じゃないかな
バリバリの時って張りのあるすごい力を持ってるんですね
少し丸くなってきて筆が自在ではないと思います
やっぱりなんか思い入れだと思うんですよ
これを息子に見せたいと思ったかどうかということよりも
ただ彼は書きたかったじゃないですかね
やっぱり息子が心配 それはあると思いますね
でもやっぱり可愛かったんだろうね
光:
かっこよすぎませんか 終わり方が
この親の子だなっていうのははっきりしたw
最後にしんみりする曲がいいよね
コメントありがとうございます!
写真や内容メモを都合により削除しなければならないこともあるので、その時はあしからずです🙏