花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

私が好きなもう一人のピアニスト

2007年11月08日 | TV・映画・音楽・美術

私の好きなもう一人のピアニストは、「スタニスラフ・ブーニン」である。
彼は1985年のワルシャワのショパン・コンクールで躍動するピアノを弾いて、堂々優勝した人だ。その時、彼はまだ18才だった。
 

私が彼を応援したいと思ったのは、ピアノ演奏の表現力の豊かさに感動したのは勿論だったのだが、他の理由もあった。
先ず彼が、当時のソヴィエト政府によって演奏の自由を制限されていたことを知ったことだ。
そればかりではなく、私もミーハーの部類に入るかも知れないが、彼の生い立ちを知ったことも大きい。

彼は、父音楽大学のピアノの教授を父親とし、ピアノ講師を母親として生まれたのだが、夫母は愛人関係にあり、父親には正式の家族がいたのだ。
父親はブーニンが生まれる前に母の元を去った。

母親は驚くことに、生まれてきた男の子に父親と同じ名前を付けた。そしてピアノを特訓したのだ。母の子育ては、まさに父親に対する女性としてのプライドをかけた必死の子育てであり、教育だったのだろうと私は女性の一人として思ったのである。
 
「ブーニン」が優勝後も、ソヴィエト政府は正式な結婚をしていない母子に冷たかったらしい。
狭いアパートでレッスンをすると、まわりから煩いと苦情が来る。防音装置のついた部屋を要求しても聞き入れて貰えない状況の中で、苦労したらしい。
先月29日の朝日新聞夕刊の記事によると、彼は優勝後の革命記念日にクレムリンで演奏する事になり、その前に文化省の大臣から何を弾きたいか質問されたらしい。

「勿論ショパンです。」と答えたら、「ショパンみたいなブルジョアではなく、誰かソ連の作曲家の曲は弾かないのか。」と言われたのだと言う。音楽芸術への無理解ぶりに若いブーニンは幻滅したのだろう。
また、世界的に有名になり、外国に出入りするようになったブーニンは、ソ連政府から監視され続けたのだ。
彼が優勝した翌年の夏、私がソヴィエト旅行をした際に、彼のCDを買いたいと思って探したが見つからなかった。店の人はブーニンの名を告げても知らない様子だった。
 
当時のある雑誌の記事だが、その頃、仲良くしていたガールフレンドが、夜、ブーニンの家を辞した直後に車に轢かれて死亡するというショッキングな事も起きたらしい。
 
1988年6月、ブーニンと母親は西独に亡命した。
1991年12月にソ連が崩壊した時、私はブーニン親子が3年早すぎた亡命を悔やんでいるのではないかと思ったりしていたが、今考えると、やはり自由のない中では、芸術家として一刻も生きられなかったのだろうと思っている。
朝日新聞によると、時速160kmの車で国境を越えたらしい。

その後、日本のブーニン支援者の助けを得て、「洗足学園大」の客員教授に迎えられ、日本女性と結婚し、全国で何度も演奏会をし、日本のファンに熱狂的に迎えられたのである。
私も2度、演奏会に行った。CDも数枚買って、数え切れないほど聴いた。

以上が私が彼を応援する理由である。
 
彼が優勝してから23年が経ち、41才になったブーニンは、現在日本で1年の1/3を過ごすという。今月、東京、大阪、仙台、札幌などで演奏ツアーをするというので、円熟した彼の演奏を多くの人に聴いて欲しいと思う。
 

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フジ子・ヘミングの演奏に感嘆

2007年11月08日 | TV・映画・音楽・美術
 先日子どもと食事をした時に「フジ子・ヘミングの奇跡」のCDを渡された。帰ってから聴いてみたら凄い!!

 彼女の半生は何度もTVでドキュメンタリーとして放映されているので、知っている人は多いと思う。
 レナード・バーンスタインに演奏力を認められながら、パリの極貧生活で風邪をこじらせて突然耳が聞こえなくなり、その結果演奏会で失敗する。
 そんな体験を乗り越えたからこそ、心に訴えかけるような強い響きの演奏ができるのだろうと思った。

 彼女の得意な「ラ・カンパネラ」が最初に録音されているが、素晴らしい。
 「ハンガリー狂詩曲」も「革命」も、彼女のような力強く哀調を帯びた演奏にはなかなか出会えないと思った。そんな訳でここ数日、ずっと彼女の演奏に聞き惚れているのである。
 ピアノ曲が好きな方には、是非一度、聴いてみて欲しい。
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