花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

ベトナム・カンボジアの旅(6)

2011年02月01日 | 海外旅行「東南アジアⅡ」ヴェトナム、カンボジャ
6日目はオプショナルで「トンレサップ湖」のミニクルーズだった。
シェムリアップの南方にあるこの湖は、雨期には乾期の数倍の大きさになり、深さも乾期には1~2mだが雨期には5~6mにもなるらしい。
多様な淡水魚が生息しているので、水上生活者はこの淡水魚を取って食べたり、売ったりして生活しているという。しかし、乾期の4か月間は魚の産卵期に当たるため、漁労が禁止されているし、小魚を取って売っても、あまり良いお金にはならないのだという。そこで近郊で農業を兼業している人も多いのだとか。
内戦中にベトナムから来た人達も多く、ガイドの話では水上生活者の50%はベトナム人だと言っていた。
トンレサップ湖の水は、真っ赤な色をした泥水だが、水上生活者は生活用水としてその泥水を使い、飲み水は山の麓に行って買うのだそうだ。

バスで船着き場まで行き、湖を見たが、乾期の最中なので水はかなり少なかった。①
観光用小船の補助労働者として男子小学生が働いていた。② オイルを運んで来たり、船を船着き場に誘導してロープで止めたりするのだ。良く見ると、沢山の小学生程の男子が他の船でも働いていた。

 ① ②

小船が湖に出ると間もなく、傍に寄ってきた小さなボートから7~8歳の少女が船に飛び移って来た。籠の缶ビールや缶ジュースを要らないかというのだ。
誰も買わなかったらさっとボートに飛び乗って消えた。その鮮やかな行動力に驚いた。ボートを操縦していた男性は、父親だったのだろうか。

次にまた近づいてくるボートがあるので見ると、男性の横に大ニシキヘビを体に巻きつけた幼女がいる。驚いた。男性が手を出して物乞いしている。男性の後ろに座っていた2~3歳位の男の子は、なぜかずっと泣いていた。③

                 ③

ボートに果物を積んで売りに来た女性もいた。赤ちゃんを抱いて、私たちに物乞いをする女性もいた。次々と現れる予想外の光景に、私たちはただ唖然とするばかりだった。
漁労が禁止されている時期は、こうして物乞いをするしかないのだろうかと、深刻な思いに捕われた。

川岸に建てられた家も水中に建つ家も、屋根はバナナの葉かトタン葺きで、壁は板壁か布をかけてあるだけの家が多かった。④⑤⑥
見るからに貧しい生活が、目の前にあった。
資料を見ると、トイレがない家がほとんどなのだそうだ。湿地帯で米を作っている農家にも決まったトイレはなく、土に順次排泄物を埋めて行くそうだ。しかし、雨期になるとそれが溢れて来て、不衛生な状態になるようだ。

 ④ ⑤ ⑥

20分程行ったところで水上にレストランや土産物店がある住居に降りた。生簀でエビや魚を養殖していた。観光用だと思われる鰐も数匹飼われていた。
湖の上には、ベトナムの水上小学校とカンボジアの水上小学校もあった。子供たちはボートで通学するという。

その後、バスで湿地帯の田園風景を見ながら⑦シェムリアップに戻った。
ガイドの話では、水田に撒く殺虫剤が湖に流れ込み、漁業資源に打撃を与えているのだという。
シェムリアップに戻って、「オールドマーケット」を見学した。雑多な店が、決して清潔とは言えない所で経営されていた。簡易食堂や惣菜店もあった。⑧⑨⑩
土産物店では、どの品物にも値段がついていなかった。

 ⑦ ⑧ 

         ⑨ ⑩

バスの中でガイドが、カンボジアの結婚について話した。
田舎の女性は、中学までしか行かずに若くして結婚する人が多い。結婚したら男性が女性の家に入り、女性の姓は変わらないという。母系制社会が続いているらしかった。親の財産は末っ子が継ぐそうである。

18;05の飛行機で今度はベトナムの首都、ハノイに向かった。3時間半バスに乗って、ハロン湾のホテルに行った。
その夜は友人と今日見たカンボジアの人々の貧しさについて、色々話し合った。東南アジアが初めての友人にとっては、取り分けショックが大きいようだった。
私は、貧困の原因は混迷した国政にあったのではと思う。

「地球の歩き方」「カンボジアに関する60の疑問」、ネットなどの資料を調べて分かったことは、フランスの植民地だった1863年~1953年の90年間は、80%を占める農民の税金が周囲の東インドシナ連邦の国々よりはるかに高く、生活は困窮を来したらしい。
そして第二次大戦後、独立運動の先頭にたったシアヌーク国王が、紆余曲折を経ながら1953年11月9日、フランスからの完全独立を果たしたが、その後1955年に王位を父に譲ってからの活動は、独裁主義的なものだったらしい。
ベトナム戦争が起きると、1970年3月に実権を握った右派ロン・ノル将軍により、カンボジアは戦争に巻き込まれた。北京に亡命していたシアヌークは「カンプチア民族統一政権」を結成して共産勢力「クメール・ルージュ」と手を結ぶが、1973年以降は内戦状態に陥って行った。ここでも、国民の生活は疲弊を極めたという。

1975年4月17日、「クメール・ルージュ」を中心とした「カンプチア民族統一戦線」がプノンペン入城を果たして内戦は終わったが、政権を握ったポルポト政権(民主カンプチア政府)は、都市の無人化、農村への強制移住政策、市場・流通の廃止、学校教育の廃止、宗教活動の禁止、人民公社の設置を断行して、それまでの社会秩序を破壊し、通貨の廃止、私財の没収、寺院の破壊、政権に反対する知識人の虐殺や無差別虐殺などに走り、正確な数字は判明していないが100万人以上が死亡したといわれている。また、地方に広く地雷を埋めた。

1977年にはベトナムとの国境紛争が起こると、1978年12月、ベトナム軍がカンボジア領内に侵攻したため、民主カンプチア政府はプノンペンを放棄してタイ国境の山岳地帯に逃走し、その後10年間、タイ、中国、英国、シンガポールなどの支援を受け続けた。
同時にタイ国境地帯には、カンボジア難民が押し寄せた。

1998年4月15日、ポルポトが死亡後も政府は存在した。1998年12月、最高幹部と数千人の兵士がカンボジア政府に投降して、崩壊したとされている。
1991年10月23日、パリで19か国の代表によって「パリ和平協定」が調印され、1993年5月に制憲議会の選挙が行われた。ラナリット殿下がひきいるフンシンペック党が勝利した後、9月23日に新憲法が公布され、24日、シアヌークを国家元首とする「カンボジア王国」が誕生した。
経済的には、1989年旧ソ連が崩壊すると援助が停止されて、財政状況がひっ迫し、インフレが加速したが、1992年以降は西側諸国からの復興援助がなされるようになって、経済も徐々に成長をし出したかに見えた。しかし、一部の華僑とカンボジア人、それに政府高官が潤う事となり、都市と地方の格差、不動産を持つものと持たないものの格差が大きくなったらしい。
その後も政情不安は続き、公務員の賃金遅配は慢性化して、カンボジア国民の大半は未だに貧しさから抜け出せないでいるのだという。

カンボジア人たちが体験して来た戦争、貧困と生存権の抹殺は、ついこの間まで続いていたと言っていいだろう。
たまたま気候が熱帯性なので、衣服、住居は簡単なものでも生きていけるし、野菜、米は生産できる。トンレサップ湖などに生息する淡水魚も、税金を納めれば取ることができる。しかし、まだ衛生的な飲み水は、買うしかできない状況だ。
政治の在り方はその国の国民が選び取るものだとしても、カンボジアに政治的にかかわってきた国々の責任も大きいと思う。
また、国際的な援助も、政府高官の汚職に結び着かず、公明盛大に使われ、願わくば最底辺の人々にまで日が当たる物になって欲しいと思ったのだった。

コメント (4)
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