かっての幾春別駅跡からもう一つの「奔別立坑コース」2.9kmを辿った。
道路は緩い登りが続いていて、気温29℃の下、水を飲みのみ着いて行った。
高台に着くと広い平地があって、そこは小学校のグラウンド跡で、1つのグラウンドを挟んで両端に二階建ての小学校校舎が二つあったのだと言う。右側に幾春別小学校、左側に奔別小学校である。二つの炭鉱別に従業員の子供が通っていたのだ。私は自治体が建てる学校しか知らなかったので驚いた。
道を折れて下ると「住友奔別鉱立坑やぐら」が下に見えだした。さらに行くと説明看板があり、かって炭鉱マンだったという男性が説明してくれた。
少し降りた所に巨大な立坑跡が聳えていた。ここは1960(昭和35)年、地下750m以上の深部の採炭をするためにドイツから技術を輸入し、三菱造船株式会社が建造した立坑で、やぐらの高さ50.5m、深度750m、内径6.4m、エレベーターは1度に人を16人×4基=64人という巨大なものだった。
採炭効率は飛躍的に向上したが、坑内温度の高さを嫌った採炭夫が大量に辞めて行く事になり、1971(昭和46)年に閉山となったと言う。
巨大な立坑の骨組みとエレベーターを見て、僅か11年間しか操業できなかった立坑に強い悲哀と化石燃料に切り替わって行った時代の変遷を感じた。
博物館に戻り、この一帯から出土した約1億年前の中生代白亜紀に海中にいた「アンモナイト」の化石と大型海生肉食爬虫類「モササウルス」の骨の展示室を見てから帰宅した。(三笠から骨の一部が発掘されて国の天然記念物になっている「エゾミカサリュウ」は、モササウルスの新種だそうだ)
暑さの中、今は人口1万人余になってしまったかっての産炭地三笠を半日歩き回って疲れたが、久し振りに知的好奇心を満足させられたフットパスだった。
私が中学生だった50年程前、遠足で幾春別駅まで列車で来て、そこから三笠市の奥にある桂沢湖に行った事があるし、北炭の炭住で暮らしていた親戚を訪ねた事もあるのに、この辺りが当時どんな様子だったのかを定かに思い出す事ができなくて残念だった。
もしこの先、この地域の特徴ある地形と化石、炭鉱の歴史と記憶を自然と文化の遺産として残すのであれば多額のお金が必要だが、地域の知恵を集めて宣伝し、もっと良い状態で建物を保存した方が良いのではないかと思った。建物をこのまま放置すれば、やがて風化し崩れ落ち、消失するのは時間の問題と感じた。
道路は緩い登りが続いていて、気温29℃の下、水を飲みのみ着いて行った。
高台に着くと広い平地があって、そこは小学校のグラウンド跡で、1つのグラウンドを挟んで両端に二階建ての小学校校舎が二つあったのだと言う。右側に幾春別小学校、左側に奔別小学校である。二つの炭鉱別に従業員の子供が通っていたのだ。私は自治体が建てる学校しか知らなかったので驚いた。
道を折れて下ると「住友奔別鉱立坑やぐら」が下に見えだした。さらに行くと説明看板があり、かって炭鉱マンだったという男性が説明してくれた。
少し降りた所に巨大な立坑跡が聳えていた。ここは1960(昭和35)年、地下750m以上の深部の採炭をするためにドイツから技術を輸入し、三菱造船株式会社が建造した立坑で、やぐらの高さ50.5m、深度750m、内径6.4m、エレベーターは1度に人を16人×4基=64人という巨大なものだった。
採炭効率は飛躍的に向上したが、坑内温度の高さを嫌った採炭夫が大量に辞めて行く事になり、1971(昭和46)年に閉山となったと言う。
巨大な立坑の骨組みとエレベーターを見て、僅か11年間しか操業できなかった立坑に強い悲哀と化石燃料に切り替わって行った時代の変遷を感じた。
博物館に戻り、この一帯から出土した約1億年前の中生代白亜紀に海中にいた「アンモナイト」の化石と大型海生肉食爬虫類「モササウルス」の骨の展示室を見てから帰宅した。(三笠から骨の一部が発掘されて国の天然記念物になっている「エゾミカサリュウ」は、モササウルスの新種だそうだ)
暑さの中、今は人口1万人余になってしまったかっての産炭地三笠を半日歩き回って疲れたが、久し振りに知的好奇心を満足させられたフットパスだった。
私が中学生だった50年程前、遠足で幾春別駅まで列車で来て、そこから三笠市の奥にある桂沢湖に行った事があるし、北炭の炭住で暮らしていた親戚を訪ねた事もあるのに、この辺りが当時どんな様子だったのかを定かに思い出す事ができなくて残念だった。
もしこの先、この地域の特徴ある地形と化石、炭鉱の歴史と記憶を自然と文化の遺産として残すのであれば多額のお金が必要だが、地域の知恵を集めて宣伝し、もっと良い状態で建物を保存した方が良いのではないかと思った。建物をこのまま放置すれば、やがて風化し崩れ落ち、消失するのは時間の問題と感じた。