≪ルーマニア/ブラショフ観光①≫
「トランシルバニア地方」のルーマニア第二の都市「ブラショフ」に着くと、最初に先住のルーマニア人達が14世紀に造ったというルーマニア正教の「聖ニコラエ教会」を見学した。
「ブラショフ」の町をドイツ移民が造った時、先住民のルーマニア人が移住させられた地域が教会の建つ「スケイ」地区で、現在の建物は後に増改築されたものだが、入り口左右に残るフレスコ画が建設当時のものという。
私達が訪れた時、少人数でミサが行われていたが、古い教会の静かな佇まいに荘厳さを感じた。
(ガイドブック『地球の歩き方』に拠ると、ルーマニアは2世紀以降ローマ帝国の支配下にあったが、ローマ帝国が衰退すると異民族が侵入して南は「ワラキア」、北西は「トランシルバニア」、北東は「モルドヴァ」という3国に分かれて発展した。「モルドヴァ」と「ワラキア」は、15世紀には力をつけたオスマン帝国に侵入されてオスマン朝の自治公国になった。
一方で「トランシルバニア」は、11世紀からハンガリーの影響の下で特権を与えられたドイツ系サクソン商人が活動して「ブラショフ」や「シギショアラ」の町を造った歴史がある。
しかし、ハンガリーがオスマン朝軍に敗れると、「トランシルバニア」もオスマン朝が支配することになった)
(長い間オスマン朝の支配下にあったルーマニアが16世紀にワラキアのミハイ公の独立宣言で一時的に独立し統一されたが、彼の死後再びオスマン朝に支配された。
「トランシルバニア」はその後の17世紀末にオーストリアの支配下に入った。1868年にはハンガリー帝国の支配を受けた。
「ワラキア」と「モルドヴァ」は、1861年に力をつけて来たロシアの援助を受けて連合公国になり、1878年には完全に独立を果たした。
1881年にカルロ1世が「ルーマニア王国」を宣言して王政となった。
1947年、王政が廃止されて、ソヴィエト連邦の影響が強い「ルーマニア人民共和国」が成立した)
(1965年に「チャウシェスク」が独裁権を握ってからは、秘密警察、ハンガリー人の弾圧、女性に5人の出産義務、政府高官達の汚職などが相次ぎ、国民への恐怖政治が続いた。
1989年12月16日ハンガリー牧師退去事件を契機に全土で抗議運動が起き、共産党本部の屋上からヘリコプターで逃げた「チャウシェスク」夫妻は逮捕されて25日に処刑された。
その後民主国家ルーマニアは、2004年にNATOに、2007年にブルガリアと共にEUに加盟した)
その日のホテルは、ブラショフ市の「市民センター」の前に建つ「キャピトルホテル」だった。ホテルの隣には「美術館」があったが、時間の関係で入場はできなかった。5階の部屋の窓からは、夜間ライトアップされた「市民センター」が美しく見えた。
翌日早朝、散歩に出たが、「市民センター」の前には、「ルーマニア」が「ローマの国」であるという歴史を現すローマ神話「ロムルスとレムスを育てたメス狼」の銅像があった。
「市民センター」の隣には、歴史的な建物を思わせる郵便局、反対側には良く整備された大きい中央公園があった。
公園にはデザインされた洒落たプランターが幾つもあった。6時半頃、犬を連れた市民が散歩をしていた。芝刈りや樹木の整枝係りの男性と出会ったが、夏時間の今は7時から勤務に就くのだと話していた。気持ちの良い散歩だった。