≪西部都市ヒヴァの観光≫(1)
「タシケント」を1日観光した後、タシケント空港に行き、18;40発の国内線で「タシケント」から750km西の「ウルゲンチ」迄2時間半飛んだ。さらにそこからバスで南西に35kmの距離を1時間半走り、隣国「トルクメニスタン」との国境に近い「ヒヴァ」のホテルに夜の22時過ぎに入った。
「ヒヴァ」は、古代ペルシャ時代からカラクム砂漠の出入り口として、また周囲が砂漠なのに、肥沃な川のデルタ地帯にあったため、4000~5000年以上も前から近郊には人が住み、農業を行っていたことが知られている。
そして17世紀に「ヒヴァ」は、年間300日が晴れるという太陽の州「ホラムズ州」の中心地となり、街をぐるりと「城壁」で囲ったのだ。
イスラム教の中心地ともなった「ヒヴァ」には、城壁内に20のモスク、20のメドレセ、6基のミナレットなどが残されている。
1990年に『ヒヴァ旧市街』は世界遺産に指定された。
旧市街を取り囲む「城壁」の高さは8m、厚さ6m、長さ2.3kmあり、東西南北に4つの門がある。泊まったホテルは、その内の「西門(オタ・ダルヴァザ門)」の前方にあった。
朝食を早めに済ませ、旅友と一緒に西門周辺を30分程散策した。気温がまだ高くないので気持の良い散歩ができた。
西門の横に「0」を発見した数学者「ムハンマド・アル・ホレズミ」の大きな像があった。彼の偉業は、この国の誇りなのだろう。
城壁に沿って南に回ると、未完成のままになっている「カルタ・ミナル」が見えた。このミナルは青い彩釉で焼かれたタイルで覆われた美しいもので、1852年に工事が始まったが、ハンが1855年にペルシャとの戦争で死亡したために中断されたままになっている。現在は26mの高さだがmもしも完成すれば70m以上の高さになっていたと推察されている。
早朝なのに既に高齢の女性が、竹箒で掃除をしていた。
その日は、ホテルから徒歩で「旧市街」観光に出かけた。
西門の前には、観光客や子ども達が沢山いた。中に入ると、初めにガイドがモザイクタイルでできた「案内図」を見ながら旧市街の説明があった。
「タシケント」を1日観光した後、タシケント空港に行き、18;40発の国内線で「タシケント」から750km西の「ウルゲンチ」迄2時間半飛んだ。さらにそこからバスで南西に35kmの距離を1時間半走り、隣国「トルクメニスタン」との国境に近い「ヒヴァ」のホテルに夜の22時過ぎに入った。
「ヒヴァ」は、古代ペルシャ時代からカラクム砂漠の出入り口として、また周囲が砂漠なのに、肥沃な川のデルタ地帯にあったため、4000~5000年以上も前から近郊には人が住み、農業を行っていたことが知られている。
そして17世紀に「ヒヴァ」は、年間300日が晴れるという太陽の州「ホラムズ州」の中心地となり、街をぐるりと「城壁」で囲ったのだ。
イスラム教の中心地ともなった「ヒヴァ」には、城壁内に20のモスク、20のメドレセ、6基のミナレットなどが残されている。
1990年に『ヒヴァ旧市街』は世界遺産に指定された。
旧市街を取り囲む「城壁」の高さは8m、厚さ6m、長さ2.3kmあり、東西南北に4つの門がある。泊まったホテルは、その内の「西門(オタ・ダルヴァザ門)」の前方にあった。
朝食を早めに済ませ、旅友と一緒に西門周辺を30分程散策した。気温がまだ高くないので気持の良い散歩ができた。
西門の横に「0」を発見した数学者「ムハンマド・アル・ホレズミ」の大きな像があった。彼の偉業は、この国の誇りなのだろう。
城壁に沿って南に回ると、未完成のままになっている「カルタ・ミナル」が見えた。このミナルは青い彩釉で焼かれたタイルで覆われた美しいもので、1852年に工事が始まったが、ハンが1855年にペルシャとの戦争で死亡したために中断されたままになっている。現在は26mの高さだがmもしも完成すれば70m以上の高さになっていたと推察されている。
早朝なのに既に高齢の女性が、竹箒で掃除をしていた。
その日は、ホテルから徒歩で「旧市街」観光に出かけた。
西門の前には、観光客や子ども達が沢山いた。中に入ると、初めにガイドがモザイクタイルでできた「案内図」を見ながら旧市街の説明があった。
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