花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

「ウズベキスタンの旅」(12)

2014年06月06日 | 海外旅行「中央アジア」ウズベキスタン
≪「シルクロード・エクスプレス」に乗車≫

旅の7日目は「サマルカンド」駅から「シルクロード・エクスプレス」の2等車に乗って「タシケント」迄4時間の列車の旅をした。
私が乗った客室は6人が向かい合って座るようになっていた。天井から冷気が降りて来て寒過ぎる位だった。





 

「タシケント」に着くと、バスで「スーパーマーケット」に行き、残っている通貨スムを使い切った。私は店員にスムの所持額を伝えて、数種類のキャンデーを計ってもらい、使い切った。



 

レストランで夕食を食べてから「タシケント空港」に向かい、21;05発成田空港行きの「ウズベキスタン航空」で帰国の途に着いた。途中、気流が悪く、機体が結構左右に揺れて怖かったが、疲れてぐっすり寝てしまった。

予定通り8日目朝8;55に成田に着いた。私はその後、京成スカイアクセス線で羽田空港まで移動し、新千歳までJALで帰って来た。

「ウズベキスタン」では、途中、経験したことが無い暑さに体調を崩したが、何とか回復して良かった。
帰宅後数日、寒くて仕方が無かったが、翌日からは庭の草取りと薔薇などの手入れ、畑に行って大豆などの種を蒔いたり、苗を植えたりして毎日働いた。

この3日間ほど、北海道はフエーン現象とかで急に30℃を越す日が続いているが、私には余り暑いと思えないのは「ウズベキスタン」に行って来たからだと思う。

これでやっと「ウズベキスタン」の旅行記を書き終えることができ、ホッとしている。
中央アジアの国へ行ったのは初めてだったが、砂漠の国、シルクロードの中継地の様子が分かった事が収穫だった。
また、イスラム教の信者が大半を占める国ながら、他のイスラム圏と違って宗教の規制が極めて緩い国である事を知った。黒いベールやコートを着ている女性はほとんど見かけなかったし、一夫一婦制だというのも、イスラム圏では最も女性が自由で幸せな国だろうと思った。

長い旅行記を読んでくれた方々に、感謝したい。 (完)
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「ウズベキスタンの旅」(11)

2014年06月05日 | 海外旅行「中央アジア」ウズベキスタン
≪「サマルカンド」の観光≫

朝起きて外に出て見ると凄く涼しい。15℃程度しかないように感じた。
予報では最高気温も28℃だという。昨日までより10℃近くも低い訳で、ホッとした。

「サマルカンド」は「青の都」「イスラム世界の宝石」「東方の真珠」などと呼ばれ、古くからシルクロードの中心的な都だった街だ。この街の発展を古くから支えて来たのは「ソグド人」で、商才と工芸技術を得意としていたという。
1220年にモンゴル軍の攻撃を受けた際は、全人口の3/4が殺害され、街は廃墟同然になった。その街を蘇らせ、イスラム世界の有名な地にしたのが「ティムール」だったという。

①「ビビハニム・モスク」
サッカー場程の敷地に大モスクと2つの小モスクがある。1399年、インド遠征から帰った「ティムール」が着工し、1404年に完成した。

 

 



②「ショブ・バザール」自由散策

 

 



③「レギスタン広場」
13世紀初めに来襲したモンゴルのチンギス・ハーンが町を破壊したことで、新たに「サマルカンド」の商業の中心地となった場所だ。主要な道路の交差点にあるため、公共の広場ともなり、謁見式や罪人の公開処刑場にもなったという。
やがてコの字状に3つのメドレセが建てられた。道路の側の展望台から3つのメドレセを見ることができた。
東に立つ1636年にできた「シェルドル・メドレセ」は、向かい側に立つ「ウルグベク・メドレセ」を模倣したといわれ、イスラム教の偶像崇拝否定に反して、門の上部に小鹿を追うライオンが描かれていた。

 

休憩していた夫人達や見学に来ていた女性の写真を写させて貰った。高齢のグループの女性達の容貌は、日本の高齢女性ととても似ていた。私達日本人のルーツと関係するのではと思った。

 

④「グリ・アミール廟」
「支配者の墓」の意味が名前のこの廟には、「ティムール」とその息子達が眠っていた。
内部の装飾には金が張られているなど、豪華な感じだった。

 
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「ウズベキスタンの旅」(10)

2014年06月03日 | 海外旅行「中央アジア」ウズベキスタン
≪「シャフリサーブス」観光≫

5日目の朝、ホテルを出てからバスで4時間走り、「タシケント」の南西に位置する「シャフリサーブス」に着いた。
この街は、シルクロードの十字路になっていて、玄奘僧正もかって中国からインドに行く途中、立ち寄ったという記録がある。

世界遺産「シャフリサーブス歴史地区」で3箇所の観光をした。

①「アク・サライ宮殿跡」
1336年、この街の豪族の家に生まれた「ティムール」は、やがて支配者としての頭角を現し、豊かな都市を建設。1380年にこの宮殿の建設にも着手した。現存する建物の高さは38mで、屋上にはプールがあったといわれている。
16世紀後半に「ブハラ」の「アブドゥール・ハン」によって、「ティムール」の遺跡の大半は破壊されたらしい。

 

遺跡の日陰で女性達がお土産を売っていた。また近くの炎天下の路上で、肉屋が屋台を出していた。

 

②「ドルッサオ・ダット建築群」
この廃墟のような建物は、「ティムール」の葬廟になるはずだったが、実際は長男と次男の石棺が収められている。
いよいよ気温が上がって来て、くらくらするような日差しだったが、庭の大きな古樹の木陰で涼むことができた。

 

③「ドルティロバット建築群」
1400年代に建てられた建築群で、一つは青いドームが光る「コク・グンパス・モスク」だ。「ティムール」の父親が眠る廟もある。

 

「シャフリサーブス」を出て、バスで3時間かけ、「サマルカンド」を目指した。
その途中、広大な砂漠と原野が見えていたが、やがて遠くに石灰岩の山脈が連なり、牛や山羊を放牧する光景が見えた。
ガイドが「「ウズベキスタン」の大地は60%が砂漠で20%が山、平地は残りの20%だけです。」「平地では古くから綿花と大麦、野菜を栽培して来た。綿花の収穫は9~10月で、学生がアルバイトで作業することが多い。」と言っていた。
また、農民は畑の土地を国から借り、税金を納めているそうだ。

 

 

「サマルカンド」には夕方到着し、焼肉レストランで食事をした。
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「ウズベキスタンの旅」(9)

2014年06月03日 | 海外旅行「中央アジア」ウズベキスタン

≪「ブハラ」観光≫

旅の4日目は「ブハラ」での観光だった。
ガイドブックによると、「ブハラ」とは、サンスクリット語で「僧院」を意味するそうだ。ここは中央アジアだけではなく、イスラム世界全体の中心街だったという。この街の黄金期は9世紀に始まり、イスラム王朝の庇護を受けて、多くの優秀な人たちが育ったり、交易の十字路としても栄えた。
しかし1220年に「チンギス・ハーン」が来襲すると勢いを失ったが、16世紀になると多くのモスクやメドレセが造られるて、再び活気を取り戻したという。

①「イスマール・サーマニー廟」
892年から建造された霊廟で、イスラム建築としては中央アジア最古の建造物だという。
「ブハラ」を占領して都にした「サーマニー朝」三代の王族の霊廟で、土に埋もれていたため発見が遅れ、1925年に発見された。
レンガを積み上げて模様を作り上げたこじんまりとした構造になっている。

 

②「チャシュマ・アイユブ」(預言者ヨブの泉)
ここは12世紀に泉が湧き出て以来、今も水が湧いていた。

③「アルク城」
大きな広場の中心に「アルク城」が建っていた。
この当たりが古代「ブハラ」の中心だったらしい。蒙古が来襲した時には、大勢の市民が虐殺された場所でもある。
城は幾度も破壊と修復を繰り返し、現存するのは18世紀のものだが、1920年にソ連に支配されるまでは、歴代の「ブハラ・ハン」の居城だったという。中に入らなかったが、色々な施設がある小さな町を作っているところの様だった。堅固な城壁には圧倒された。

 

④「カラーン・ミナレット」「カラーン・モスク」
「カラーン・ミナレット」は高さ46mある大きいミナレットだ。1127年に建てられた。10mの土台部分は地下に埋まっていて、上部にはアーチ状の16個の灯火窓がある。
大地震にも耐え、チンギス・ハーンも破壊しなかった。

「カラーン・モスク」は、1514年にシャイパニ朝時代に建てられたもので、広さは1ヘクタールあり、1万人が礼拝できた。
ソ連時代には倉庫として使われたが、独立後、モスクとして復活した。

 



この後、自由散策で「タキの土産品市場」を散策した。
「ウズベキスタン」の工芸品である「スザニ」刺繍で作られたマットやクッションカバーなどが沢山あり、人気だった。

 

また、露天商のお爺さんが売っていた「ナン」に模様をつける道具が珍しかった。特に男女の乳児の下腹部にとりつける木製の採尿器には、こんなものがあるのかと驚いた。

 

⑤「ナディール・ディヴァンベキ・メドレセ」
大臣「ナディール・ディヴァンベキ」が1622年に建てた神学校である。
正面入り口の色タイルの模様が目を引く。2羽の鳳凰が白い鹿をつかんで、太陽に向かって飛ぶ姿だ。偶像崇拝を否定するイスラムの教義に反する絵が、珍しい。
中庭に入ると回りにある学生用の部屋は、現在はみやげ物店になっていて、夜は食事つきのショウやコンサートが行われている。
私達は夕方、再び訪れて、ここで食事をしながら民族衣装のファッションショウを見た。

 

 




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「ウズベキスタンの旅」(8)

2014年06月02日 | 海外旅行「中央アジア」ウズベキスタン
≪西部都市ヒヴァの観光≫(3)

②「ジュマ(金曜日)・モスク」
このモスクは10世紀に建てられた後、修復工事を重ねた「多柱式」モスクである。約3m間隔で213本の木の柱が並んでいる。
柱には一本々々細かい異なる彫刻が施されていて見事だ。脂を塗って水をはじいていた。人の形をデザイン化したものもあった。
天窓から入る光だけが明かり取りなので、独特な雰囲気がある。
42mの高さのミナレットがあった。

 

  

③「奴隷市場」
「ヒヴァ」には、中央アジア最大の奴隷市場があった。
ガイドブックによると、19世紀の初めにロシアは、ロシア人奴隷の解放を口実にして「ヒヴァ」に軍隊を送り込んでいたが、1873年「ヒヴァ」を全面降伏させて3000人のロシア人奴隷を解放したという。健康で強靭なロシア人奴隷は、ラクダ4頭で売られていたらしい。
この時、それ以外の奴隷も3万人いたというが、ロシアは解放した。

かっての「奴隷市場」は今はアーケード街になっていて、大勢の人々が行き交っていた。壁側の小部屋は、みやげ物店や家内工業の場所として使われていた。

 

④「タシュ・ハウリ宮殿」
こ宮殿は1830年代に建てられた豪華な宮殿で、中庭を囲む二階建ての建物が「アラクリ・ハン」の「ハーレム」だった。
中庭南面の大きな5つの部屋は、それぞれハンと4人の正妻が住んでいた。(イスラム教では、4人の妻まで持つことが認められている)中庭北面の中小163もの部屋には、その他の女性が住んでいたという。
入り口にあるハンの暗い部屋の奥には、ハンが使ったベッドが置かれていた。



 

⑤木彫り工芸品・「ナン」を焼く若い女性
伝統的な木彫りの工芸品が色々売られていたが、職人達がドアを彫っている所を見た。中学を卒業したばかりの様な少年も混じって、日陰で一所懸命にノミを使っていた。

昼食のレストランの側で、土製のかまどに綿花の枯れ枝を押し込んで燃やし、「ナン」を焼いている女性を見かけた。
その日の気温は38℃はあったと思うが、炎天下、煙が立ちこめる熱いかまどに「ナン」を出し入れしている姿には感嘆した。
「ナン」は「ウズベキスタン」の主食のパンで、塩だけの味だが美味しかった。





旧市街見学後少し休んでから、夕方、飛行場がある「ウルゲンチ」にバスで向かった。
途中、かって「ヒヴァ」王朝の夏の宮殿だった所で夕食を食べた。庭が広く、ワイン用のブドウ畑があった。各部屋の装飾が素晴らしかった。
  


「ウルゲンチ」発21;10の飛行機でおよそ330kmの「ブハラ」迄飛んだ。「ブハラ」のホテルに着いたら深夜だった。
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「ウズベキスタンの旅」(7)

2014年06月01日 | 海外旅行「中央アジア」ウズベキスタン
≪西部都市ヒヴァの観光≫(2)

①「キョフナ・アルク」

「ヒヴァ」の旧市街は限られた面積の中に所狭しと建物が立ち並んでいた。
先ず行ったのが17世紀に建てられたハンの宮殿跡「キョフナ・アルク」だ。公邸、執務室、モスク、ハーレム、兵器庫、火薬工場、造幣局があった。

クリヌス・ハンが建てた「アイヴァン(テラス)」は、17世紀に建てたものがペルシャに破壊されたので、19世紀に改築したものだという。2本の柱で支えられ、壁は青色の七宝タイルで覆ってある。
天井は、カラフルで細かい模様で飾られていて玉座の間になっている。
中庭には円形に盛り土をした場所があり、客が来た時に移動式の住まいを建てた場所で、排水溝も造られていた。





 

このテラスから、今は展望台になっている「見張り台」が望めた。
別料金4,000スム(184円)を払って、急な階段を登り、展望台に登った。眼下には、強固に造られた城壁が一望でき、良く保存された中世の町を見渡せた。

 
            (入って来た西門前には、相変わらず人が多い)

 


(ヒヴァの最後のハンに使えた大臣「ホジャ」が建てた45mのミナレットがある「イスラーム・ホジャ・メドレセ」)

狭い「見張り台」で仲良くなって写真を撮らせてもらった地元の子ども達と親子?

 

椅子が置かれた王の部屋がある一方で、入り口には、監獄があった。

 
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