安心、安全と美味しさへのこだわり
そんな「こだわりの農業ブログ」を毎日更新
主役の妻は生産部長、夫は営業部長兼雑用係
21日(月)の地元紙に、前日開催された「パパさん、ママさんバレーボール大会」の結果が
掲載され「厳美の優勝」を報じていた。
この大会には私も毎年のように参加し、色々と楽しい思いをさせて貰っていた。
最後の数年間は、その御礼も兼ね監督としてベンチに入って居たが、「繁忙期に一日不在」が
辛くなり、引退を余儀なくされた。
掲載された写真には生産者仲間のT子さんの長男夫婦と孫達が写っていた。
口八丁手八丁のT子さんはスポーツであれ踊りであれ「何でもござれ」の達人で、60歳過ぎ
にもこの大会に出場していたように記憶している。
それから15年以上も経過した数年前、大会当日の朝の産直で、「今日は試合に出ないの?」
とからかったら「今回はオファーが無かった」と平然と切り返された。
私がT子さんを敬愛するのは、農業に造詣が深いだけでなく「頭の回転の速さ」に魅力を感じて
いるためでもある。
今朝の産直で、T子さんの車の助手席に可愛い女の子が座っていた。
出勤して来た道の駅の女性職員逹も「可愛いね」を連発していたので、写真を撮らせて貰う
ことになった。
「『毒舌バアサンの孫』として世界に向け発信させて貰います」と冗談を言ったら「私の顔は
写さないで」と言いながら協力してくれた。
約一カ月振りに「夏の空と暑い夏」が戻った。
今朝、部屋の湿度計は70を指していたが、昼過ぎには40まで下がった。
部屋中のカビ臭、乾かない洗濯物、湿気を帯びた布団等とようやく決別することが出来た。
曇天下での農作業も憂鬱だったが、炎天下での農作業は「暑さとの戦い」でもある。
滝のように流れ出る汗と執拗な蚊の攻撃に耐えながら今日も草刈りに精を出した。
やはり「夏は暑い方が」そして「天気は晴の方が」元気が出るようだ。
久し振りの晴天に低下気味だった鶏の産卵率も「V字回復」となった。
天気との「相関関係の有無」は不明だが・・・。
枝豆の不作の原因は天候のせいではなかった。
全般的に痩せた土地が多かったので「豆には不要」と言われている堆肥を施したことが
最大の原因だった。
栄養充分な畑に満足した枝豆は「種族保存」の努力を怠り、莢ではなく枝葉を大きくする
ことに注力していた。
施肥が裏目に出たのはそれだけでは無かった。
雑草を瞬くままに枝豆を覆い隠すほどに生長させてしまっていた。
この雑草を退治するため大きな稼働を割いたのだったが、今日、付いている莢の少なさを見て
愕然とし、「稼働が徒労に終わった」ことに気付いた。
将棋の世界に「悪手が悪手を呼ぶ」という格言がある。
早々に諦めて来年に備えるのが賢明かもしれない。
(今日も午後になって断続的に強い雨が降った。二毛作の大豆畑も雑草が目立つようになって来た)
夏に「雨の日が続く」ことはこれまでもあったかもしれない。
しかし、雨が止むと夏の青空が広がったように記憶している。
その「夏の空と太陽」が8月6日から途絶えてしまった。
連日続く曇り空と雨で今年は稲作も野菜も「不作」が決定的なものとなってしまった。
(久し振りに朝の光を浴びた鶏舎。不順な天候は鶏の産卵率にも悪影響を及ぼしている)
今朝は半月振りに太陽と青空を拝むことが出来た。
ようやく「夏が訪れた」と思った途端に再び雲に覆われ昨日に逆戻りしてしまった。
神は百姓に艱難辛苦を与えたもうた。
今回のクラス会で高校一年の時の恩師で、前回のクラス会にも参加頂いた田村剛一先生の訃報を知って驚いた。
地方紙の岩手日報には掲載されていたというので帰宅後にネットで再確認した。
(ネットの訃報欄)
田村剛一氏(たむら・ごういち=山田町議)
7月8日午前10時13分、すい臓がんのため山田町内の病院で死去、78歳。山田町出身。自宅は山田町後楽町。
火葬は10日に済ませ、葬儀は12日午後1時から山田町後楽町の龍昌寺で。喪主は長男直司(なおし)氏。
99年から山田町議、通算4期目。山田伝津館代表。
(前回のクラス会に参加した際の田村先生。赤面症だったが写真はお酒が入っていたためのもの。
3.11の「震災の語り部」として全国を駆け巡っていて、この日も東京からの帰り足だった。)
まだ若いので、引き続き地域のリーダーとしての活躍が期待されていたので山田町としても惜しい人材を失くした
のではないか。
先生が町議現役の内に、クラスメイト何人かで山田町まで遊びに行く予定にしていたのだったが、それも叶わない
事となってしまった。
先生は一昨年5冊目となる著書「一平先生 教壇日誌」を刊行したばかり。
3月31日に当ブログでも紹介した河北新報(29.3.24)の「持論、時論」への投稿が絶筆となったのかもしれない。
最期まで「教育者」であり続けた素晴らしい先生だった。
合掌
(参考)29.3.31のブログを再掲
自称「仙台年金友の会」の仲間として長年親交が続いている荒川先生(仙台市立西多賀小学校校長を経て東北福祉大学准教を歴任。
数年前に退職)から「教育という営みは生涯で二人の理解者がいればよい、と思って来た私です。田村先生の論についていつも
納得させられます。」とのコメントを添えて高校時代の恩師の投稿記事の切り抜きを送ってくれた。
河北新報 「持論時論」
教師と生徒 師弟関係ではなく複雑
元教員 田村剛一(78歳・岩手県山田町)
愛知県一宮市の中3男子生徒が2月上旬、商業施設から飛び降り自殺する事故が発生した。生徒のゲーム機に「遺言」として
「担任に人生全てを壊された」という記述が残されていた。
学校は一時「担任によるいじめがあった」と説明したが、その後否定している。真相究明を待つしかないが、それにしても、
今回の愛知県の問題は深刻だ。何せ、自殺の原因が担任教師にあるかもしれないというのだから。
教師と生徒の間に問題が発生するたびに、両者の関係が複雑、微妙になってきたなと感じる。今回の愛知の自殺問題は
別にして、教師と生徒の間は、第三者が考えるような「師弟関係」で割り切れるような単純なものではない。教師にも生徒にも
個性があり、人格がある。それがぶつかり合っているところが学校だといっても過言ではない。
教師になろうとする人は、誰もが「良い先生」になろうと思い、その道を選ぶ。しかし、教壇に立っているうちに、それが
不可能に近いことを実感する。「いい先生だ」と言う生徒もいれば、「駄目教師」と言う生徒もいるからだ。
私も一時、困ったことがある。社会科担当ということもあり、自分の体験を授業中に話すことが多かった。「先生の話は人生勉強に
なるので、これからも話してください」と言う生徒が多かった。しかし中には「先生の話は聞きたくない。教科書通りにやって
ほしい」と言う生徒もいた。どちらの意見も生かしたいと思い苦労した。
38年の教員生活で、自分の信条にしていたことがある。それは、弱い生徒の立場に立って教育に当たること。自分のクラスから
いじめを出さないこと。体罰は絶対にしないこと。
背景には、私自身小学生時代いじめに会い、辛い思いをした経験がある。高校時代には、担任から体罰を受け、一番好きだった
教科が嫌いになってしまったこともあるからだ。
その信念を38年間通したつもりである。
ところが、退職して間もない頃、教え子の母親から「うちの息子は、しょっちゅう先生に殴られたと言っていましたよ」と言われ、
驚いた。この教え子に限らず、生徒を殴った記憶は全く無かったからだ。しかも、この生徒とはうまが合った方で、よく談笑もした。
その時、手を肩に掛けたことがある。生徒はそれを体罰と受け取ったのかもしれない。
今でも交流がある教え子たちがある。会えば「先生のおかけで卒業できた」と感謝されることもあれば、「何も教えられなかった
から良かったのではないか」と皮肉っぽく話されることもある。
大部分の教え子たちとは、現在、音信はない。中には「田村の顔は見たくもない」と思っている教え子もいるかもしれない。どんな
にいい教師になろうと思っても、どんなに努力しても、みんなから「いい先生」と言われることはない。教師と生徒とはそんなもので
ある。
それを知ってもらいたいと思い、ペンを執った。