穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

太宰治『ヴィヨンの妻』新潮文庫収録短編個別に

2012-05-13 07:48:02 | 太宰治書評

親友交歓:

津軽に疎開中に小学校時代の親友だと称して現れた農夫に貴重品のウィスキーを鯨飲、強奪される話。体験をもとにしていると思われる。自分のことを語る以上に相手の様子、言動を描写している。

まさに、「私はそれをここで、二、三語を用いて断定するよりも、彼のその日の様々な言動をそのまま活写し、もって読者の判断にゆだねるほうが、作者として所謂健康な手段のように思われる」というが、成功しているようだ。良品

トカトントン:

読者の手紙をもとにしているが、どうも作者自身のことらしい。幸福になりそうな予感、予兆があると必ず意欲を萎えさせるようなどこかで釘を打つようなトカトントンという幻聴に襲われるという話だ。良品と言える。

太宰は引用がうまくない。ほかの作品にも割と引用が出てくるが、適切と思われないものがおおい。もっとも趣向やセンスの違いという言い方もあるが。

父:

父としての自分から子や家族のことを語っているらしい。並み、いくつかの引用適切ならず。

母:

旅先で隣の部屋で中年の女中と戦地から復員した年若い航空兵が交わすねやの会話を漏れ聞いた体裁の話。実体験か又聞きの話を書いたようだ。並み作

ヴィヨンの妻:

内縁の妻の視点から自分の?不始末を観察した作品。良品である。解説の亀井勝一郎のように傑作とまでいうのは躊躇する。視点を工夫したのが成功の原因だろう。

結末しまらない。これもまた太宰の特徴。本質的に彼は短編作家なのだろう。人間失格のような中編でも同じことがいえる。短編でもこの作品のように少し長くなると落ちをつけるのが苦手のようだ。

おさん:

これも妻の視点から。あまりインパクトなし。

家庭の幸福、桜桃

この両作品を一言で評すれば『ぼんやり』。ほぼ同じころに書かれたらしい人間失格にくらべれば明澄性で明らかに劣る。精神の崩壊を反映するか。


太宰治にはまってる

2012-05-13 06:51:18 | 太宰治書評

何故か、親族に彼を彷彿とさせる男がいるのである。で、そのような興味から読むのである。

今回は新潮文庫『ヴィヨンの妻』。戦後の短編八つを記載。私小説的作家と言われるが、どこまで虚実が腑分けされるか考証家、文芸評論家ではないからわからない。

しかし、私のスペクトル分析機でふるい分けで、勝手に判断しているわけだ。エトスの部分はおおよそ過たずにとらえているだろう。

親族と彼との違いは作家ではないということである。最後は経済学の大学教師だった。共通している点は酒飲みぶりである。生活破綻者的なところである。

妻を泣かせ、バー、居酒屋を意地汚く飲み歩く。

違うところは、上記のほかに、案外要領のいい男で最後は大学の学長になった。学生や同僚教授を手なずけて子分にする才能がある。

酒と同様に、それと分かちがたく絡み合って、彼の情欲を燃え立たせたのが左翼運動であった。

時代が変わり形勢不利となると、素早く転身して地方の大学教師に落ちていき最後はそこの学長になった。あの頃の大学にはこういう人たちがまた、多かったのである。

以上が太宰を批判しながら彼にはまっている理由である。

長くなった、ヴィヨンの妻ほかについては次回。